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Révision Du Livre

平和を愛する男がチョイスするブックガイド

「2016年9月の読書リスト」

今月、我が家に最新鋭のBDレコーダーがやってきた。今まで使っていたレコーダーのDVDディスクが壊れたので買い換えたのである。 今まで使ってきたレコーダーは、今まで使ってきたテレビが故障し、5年前に液晶テレビ(人生初の液晶テレビである)とともに購入したマシンである。当時は単純に「画面がフツーに映ればいいや」と思っていたので、性能面は全く考慮しなかった。その頃登場した最新鋭のテレビは「ネット対応」を謳い、テレビでもYouTubeを楽しめることをウリにしていた。その時はネット上で動画を楽しむのはPCだと思っていた私は、最新鋭機ではなく普通のテレビを買った。もちろんBS・CS放送を見るつもりもなかった。 ところが、私が購入したレコーダーはチューナーが1つしかなく、録画したい番組が重なると、どちらかをあきらめなくてはならない。そういうことはしょっちゅうだった。録画できる時間も「3倍モード」で25時間分(5年前の製品は「GB/TB」ではなく、「時間」で収録可能時間を表示していた)しかなかった。そのため残しておきたい番組がたまると、その都度DVDにダビングしなくてはならず、DVDプレーヤーに過剰な負担がかかった。繰り返されるダビングにDVDプレーヤーは悲鳴を上げた。2年前に故障して一度部品交換をしてもらったが、今回の故障は家電量販店が設ける「長期保証期間」ギリギリのことだったので、それだったら新しいマシンを買おう、という結論に至ったのである。 BSを見るようになると、旧マシンへの不満が増大した。この機械では、BS番組はVHSビデオの画質でしか録画できないのだ。しかも画面はハイビジョンではなく「標準」モードだから、表示される画面の範囲は狭い。チューナーを新しくしたことで表示画面の不満は解消したが、画質の不満は残ったままだった。何しろ、映画のエンドロールに登場する細かい字がきちんと読み取れないのである。だからこの夏に外付けHDD購入して番組を録画して番組を見たとき、その画質の違いに唖然とした。問題は、外付けHDDに録画したBS番組を、新しく買ったマシンにダビングできるのかどうかということだ。それにしてもBS・CSというのは、本当にカネがかかるシステムである。

さて、それでは先月読んだ本の紹介である。

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「2016年8月の読書リスト」

オリンピックと甲子園という、国内外のビッグスポーツイベントが終わり、今年も9月に入った。 まだまだ暑い日が続くが、日本、そして日本の政治は終わったような気がしてならない。 今回の参議院選挙と都知事選の結果を見て、極右・復古派はしめしめと思っているに違いない。もっとも後者については「保守分裂」という願ってもない好機を生かせなかった、野党陣営の作戦ミスも大きい。

右傾化する若者世代に一石を投じるべく結成された若者団体「SEALDs」の解散会見が、今年の終戦(敗戦)記念日に開かれた。 大学生が中心になって結成されたこの団体は「怒れる若者の代表」として、一躍マスコミの寵児になった。全国に関連団体ができたことで、同世代への影響を与えうる団体と見なす人たちも多かっただろう。参議院選挙の一人区における野党共闘は、彼らの存在なくしてはありえなかったのは確かだ。今回の参議院選挙から、投票権がこれまでの20歳から、18歳に引き下げられた。そこにSEALDsが登場したから、彼らの活動に刺激を受けた同世代が「反安倍」に1票を投じるのではないか?という見方もあったが…結果は、皆様ご承知の通りである。 はっきり言って、私は彼らが与える「影響力」とやらを疑問視していた。今の日本では「世間で名の通った大学の学生=文化資本の高い階層出身が多い」と思われがちである。実際、ボランティア活動に積極的に関わっている学生は、知力・資力において余裕のある学生が大勢を占める。おまけに今の大学生は、自分と似たような境遇の人間、同じような環境で育った人間としか付き合わない。まれに異世代と付き合う人たちもいるが、それは自分たちにとってメリットがあるからである。女子学生はこれが顕著で、自分たちにプラスになるかどうか、ちょっとした会話で瞬時に判断する。 そしてこれらの体質は、NGO関係者にもいえることである。会話した相手の知性並びに文化資本が、自分たちより明らかに低いとわかると、よそよそしい態度をとる人間の何と多いことか?「せっかくだから寸志・会費はちょうだいします。ですがあなた方の意見を聞く気はありません。黙って我々のやり方についてきてくれればいいのです」という不愉快極まりない感触を、私は何度も感じた。 それはSEALDsも同じこと。彼らがシンポジウムを開くというので彼らのHPを見た私は、その金額を見て、心の中で怒髪天をついた。入場料3,000円だと! 学生の多くは、将来に怯えながら生きている。学費を滞納しないか?奨学金を打ち切らたり、アルバイト先をクビにならないか?クビにならなくてもバイト先から不当な扱いを受けないか?無事に就職先が決まるか?卒業しても借金苦に陥らないか?食費をギリギリに切り詰めても、公共料金や家賃を滞納しないか、びくびくしながら生活している彼らにとって3,000円というのは、おいそれと払えない金額である。組織運営費、会場費がかかるのは理解できるとしても、この金額はいくら何でもぼったくりではないか!50代に近いわたしですら憤りを感じるのだから、同世代はなおさらだろう。 生活に苦しんでいる学生にとって、彼らの存在は「別世界の住人」「異星人」にしか見えないに違いない。こっちは日々の生活に追われ、料金や家賃滞納の恐怖に直面しているのに、彼らは何事もなかったかのように「戦争反対」「原発再稼働反対」と国会前で叫んでいる。生活や将来の心配をする必要のない人はうらやましいよねと、静かに冷たい視線を浴びていることを、SEALDs関係者とその支持者は理解しているのだろうか? 確かに今の「若者」にも、真剣に「脱原発」「戦争反対」を願っている学生もいるだろう。しかし大多数の若者は、そんなことよりも「真っ当な就職先」「格差対策と機会の均等」を強く求めているのである。今の若者は、心身とも疲れ切っており、社会問題に関わる余裕はない。SEALDsに限らず「左派」知識人並びにメディア化傾斜が、これらの問題をもっともっと取り上げ、彼らの意見に耳を傾ける姿勢を見せていたら、参議院選挙も都知事選も、違った結果になっていたはずである。

それでは、先月読んだ本の紹介である。

 

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「冷たい校舎の時は止まる」

本作は、第147回直木三十五賞直木賞、2012年上半期)を受賞した辻村深月のデビュー作である。彼女はこの作品で、第31回メフィスト賞を受賞した。文庫版で上・下巻計1,000Pをこえる大作だが、最後まで読者をあきさせない展開は、この作品が作者のデビュー作である事を感じさせない、見事な出来となっている。 本作は、とある地方都市にある県下一の進学校・私立西南学園高校で開かれた文化祭最終日に、同校生徒が飛び降り自殺するというニュースで幕を開ける。メディアはこの事件を「原因は受験ノイローゼか?」と報道した。 それから3ヵ月が経過した雪の降る日の朝、普段どおり学校に登校した8人の高校生。彼らはいつもと同じ時間に登校し、授業を受ける…はずだった。 ところが、いつもと様子がおかしい。 校舎の中に、彼ら以外の生徒がいる様子がない。 そればかりか、職員室にも教師がいない。 もちろん、彼らの担任教師も姿を消していた。 彼らは真相を探るべく職員室に潜入し、そこで1枚の写真を見つける。 その写真は、彼ら8人の集合写真だが、写っているはずの1人がいないことに気がつく。 やがて、このクラスで同級生が自殺したことを思い出すが、その人物が誰なのか、顔も名前も思い出せないことに気がついて愕然とする。 そのため自分たちの中に自殺者がいるのではないかと、お互いに腹の探り合いを始める8人。 その過程で、彼らが抱える心の闇が明らかになっていく…。

いじめ。 たえず付きまとう疎外感。 クラスメートから貼り付けられた「優等生」という疎ましいレッテル。 援助交際。 自分に対する自信のなさ。受験のプレッシャー。漠然とした将来への不安感。 自分に自信がないことから来る、恋愛への恐怖。 失恋。 ストーカーまがいの恋愛感情。 自殺。 繰り返されるリストカット。 無理心中。 この本で取り上げられるテーマは、多くの若者が抱えている問題である。 ぱっと見では「進学校に通う高校生」の彼らも、その心には、人知れぬ闇を抱えている。 本作を読む前か、読んだ後かは忘れてしまったが、 その昔「夜のピクニック」を読み終えたとき、ある種の違和感を感じたのを思い出す。この小説で扱われるテーマが、一晩かけて80㎞をひたすら歩くというのもあるが、その中では複雑で微妙な人間関係にも触れているはいるが、このお話の登場人物の悩みは「冷たい-」の登場人物が抱える悩み、苦しみ、心の闇に比べれば、取るに足らないものである。それだけにこの作品の世界観は、ある種のリアリティを持っているといえるだろう。

そして、突然登場する担任教師。彼の正体とは一体? さらに、この事象の真相とは…

それから2年経った、夏のある日。 彼らは帰省で地元に戻り、近況報告と当時の思い出話に夢中になっている。 東京の大学に進学した者。 自らの経験を生かすべく、心理学を専攻する者。 教師を目指して、地元大学の教育学部に進んだ者。 京都の大学に進んだ者。 その人物を追いかけるように、京都の医科大学に進んだ者。 京都にいる2人以外の仲間たちは、自殺した元クラスメートの墓参りに行き、冥福を祈った。 クラスメートの自殺は、残されたものに衝撃を与える。 自殺のことなんか忘れたい、思い出したくないという気持ちから起こった、あの事件。

この小説のすごいところは、各人が抱える悩みや心の闇を扱いつつ、決してウェットな展開になっていないということ。これらの問題をテーマに扱うとき、一つ間違えれば、読者に「つらい」という感情をあたえかねない。読者にマイナスの感情を与えない作者の筆力は、ただただうなるばかりである。 最後まで読み通して、彼らの将来に幸あれと思わせる、粋な終わり方。 自分もできることならば、彼らのグループに入ってみたいと思わせる作品はめったにない。これは、そのひとつである。 できることなら、冒頭の自殺の一件は「実は冗談でした」というオチだったらよかったのだが…。

蛇足ながら、私が感じた違和感を一つだけ触れておく。 それは彼らの進路が「文系」「理系」と分かれているのにクラスなのはどうして?ということ。 「普通科」のある高校では、よほど偏差値が低い学校でない限り、高校2年生に進級すると、生徒は自分の将来を見据えて「文系」「理系」のコースを選択するのが普通だ。世間一般でいう「進学校」は、高校3年生になると「国公立文系」「国公立理系」「私立文系」「私立理系」という感じで、細かくコースが分かれる。 ところがこの物語に登場する生徒たちは、文系学部に進んだ生徒もいれば医学部に進んだ生徒もいるのに、1年間同じクラスで学んだとしか思えない。ごく希に、文系・理系のコース分けをしない学校があるという話を、何かの本で読んだ記憶がある。あるいは、自分の受験に必要のない科目の授業中は、他の教室で自習を認めるシステムをとっていたのだろうか。

辻村はこの作品以降、次々と注目作を発表している。 直木賞受賞以後は取り上げる題材が幅広くなったが、個人的には、このような独特なタッチの作品をもっとつくって欲しいな、と思っている。

「2016年7月の読書リスト」

毎年この時期のメディアは、高校野球で勝手に騒ぐので、鬱陶しくてしょうがない。私が購読している新聞の地方欄は、高校野球予選の期間中、必要最低限のデータしか載せないからまだ我慢できる。しかし主催社の朝日新聞をはじめ大メディアは予選開催中、来る日も来る日も地方版で「さわやかな球児たち」「選手たちを必死で応援する学校関係者」を紹介する記事を掲載する。彼らの性格が記事に載ったとおりならいいが、そんな生徒にはめったにお目にかからない(あくまでも私個人の体験と印象に基づいているのであしからず)。問題は生徒の中に「問題児」がいる場合である。地方では教師を含め学校関係者は、地域の有力者と一体化(「癒着」ともいう)していることが多い。そのためスポーツに限らず、地域における学校の「看板部活」の関係者が不祥事を起こすと、彼らはありとあらゆるコネを駆使して、不祥事のもみ消しを計画・実行する。毎年発覚する部活関連の不祥事は氷山の一角に過ぎず、泣き寝入りする被害者も多いに違いない。まあ高校野球に限らずスポーツイベントに冷淡なのは、自身が「運動音痴」である事、私に酷い「いじめ」をしていた連中の多くが「運動部」に所属していたからなのだが。実際、とあるプロ野球選手が自著で 「高校球児を『さわやかな』と表現するのはいい加減やめて欲しい。オレの周りの高校球児は『酒・タバコ・オンナ』に夢中だった」 と、その内情を暴露しているし。高校野球ですらそうなのだから、他のスポーツも似たようなものだろう。 女子のスポーツ選手はどうかって?男子より少しはマシだろうと思いたいが、最近の女子は「肉食化」しているからね。おとなしそうな顔をしているが、ひとたび競技場を離れたら、男をとっかえひっかえしている、という伝聞記事を掲載された選手もいる。やっかみが混ざっているかも知れないが、真相はどうだろう? 今年(2016年)はオリンピック・イヤーだが、前回大会のロンドン・オリンピックに設置された選手村で用意したコンドームが、開催終了を待たずに全部なくなったとか、選手村で知り合った選手同士が、愛の世界に浸っていたという話が盛んに流れていた。実際に選手村に泊まっていた選手の証言だから本当だろう。ネタほしさに「枕営業」を仕掛けるメディア関係者もいるかも、というのはゲスの勘ぐりか。特に今回の開催地であるリオデジャネイロのあるブラジルは、男女間の貞操観念が希薄なお国柄(これも管理人の勝手な妄想です)だから、今まで以上のペースでコンドームが捌けるのでは?といらぬ妄想を思ってしまう管理人は、生まれてこの方彼女がいたことがない、哀れな中年男性である。 話は変わるが、このブログも開設以来、入場者数が10,000人を突破した。このような弱小ブログを訪れてくれる読者に、この場を借りて感謝したい。

それでは、今月読んだ本の紹介である。

 

演劇の力 ―私の履歴書
 
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「クララ白書&クララ白書パート2」

1980年代から90年代にかけて「少女小説」の世界で一世を風靡した、氷室冴子の学園コメディの傑作である。 徳心女子学園中等部に通う主人公・桂木しのぶは、家庭の事情で、学園内にある寄宿舎・クララ舎に入寮することになった。彼女の同期は漫画家志望でうどん屋の娘・佐倉菊花と、酒蔵の娘・紺野蒔子の2人。新しくクララ舎にはいる生徒は、とある「洗礼」を受けなくてはいけない。彼女たち3人に出された課題は、クララ舎で寄宿生活を送っている生徒45人分のドーナツを作ること。その苦行を乗り越えるために、3人は一致団結して知恵を絞り、作戦を立てるのだが…。 この作品の最大の魅力は、強烈な個性を持つ、主人公3人組の存在である。 やさしいが単純、そしてどこかぼけたところがあるしのぶこと「しーの」。 ナルシストを絵に書いたような性格の蒔子こと「マッキー」。 何かある度に自説を主張し、絶対に譲らない菊花(「きっか」と読む。彼女だけが、名前と愛称が同じである)。 彼女たち3人のやり取りだけでも「濃い」ものを感じさせるが、この作品に出てくる先輩、後輩、同級生たちも、彼女たちに負けず劣らずの曲者ぞろいである。 何しろ、先輩方の「別名」からしてぶっ飛んでいる。 「きらめく虹子女史」 「清らなる椿姫白路さん」 「奇跡の高城さん」 なんて、この学校は宝塚かなんかかと思わず突っ込みを入れたくなるが、これには理由がある。

実はこの人、宝塚歌劇団のファンクラブ会員だったことがあるのだ。宝塚歌劇団をテーマにした漫画の原作を書くことになり、それをきっかけに宝塚に住むことになった。そして正体を隠してファンクラブに加入し、他の会員と一緒にファンクラブ会員の活動をしながら作品の原稿を書いた。ファンクラブでは準幹部の地位まで出世したことを、後年書かれたエッセイの中で明かしている。しかしそのエッセイの中で、自分が作家である事を公開したのか、ファンクラブに入った理由が、漫画の原作を書くことであるかを告白したのかは、管理人はその作品を読んでいないのでわからない。作者が宝塚に転居したのは、本作が刊行された翌年(本作刊行は1980年)である事から、作者はもともと宝塚のファンだったのだろう。物語の中に出てくる文化祭等の学校行事において、後輩が先輩に夢中になる様子が頻繁に出てくるのは、その影響が残っているからかも知れない。 作者は公立共学校出身だが、物語の舞台を「カトリック系女子校の寄宿舎」に設定したのは、著者自身がこの学校にある種の憧れを持っていたからと思われる(モデルになったのは、北海道を代表するお嬢様学校である)。入舎時のドーナツ作戦を皮切りに、しのぶたちの身の上に起きる、信じられないような出来事の連続に「(お嬢様学校の)女子校怖い。女子の世界怖い」と怯える男性読者もいるだろう。もちろんこの学校で起きている出来事が、「お嬢様学校」の実態とは思えないが、現実世界でこれらの出来事は日常茶飯事だったら、生徒は精神的なストレスを感じるだろうなあ。物語の展開に深みが感じられないところもあるが、勢いだけで最後まで読ませてしまう筆者の筆力には、ただただ脱帽するのみである。しかもこの作品を出版したのは、まだ23歳のときだというのだから驚く。 彼女が活躍していた時代は「少女小説」というジャンルが隆盛を極めていた。実は、彼女が出現する前からも「少女小説」というジャンルは存在した。戦前は吉屋信子らの作品が、当時の少女らに愛読されたのだが、戦後まもなく下火になってしまう。1970年代前後、「少女小説」のジャンルで活動している作家は、出版界界隈からも「変人」というレッテルを貼られていた。その当時の様子については、彼女の代表作である「少女小説家は死なない!」に詳しく描かれている。 彼女の名前が世間に広まるのと同じくして、藤本ひとみ正本ノン久美沙織田中雅美ら、文章力やストーリー構成力に秀でた作家たちが続々と登場する。彼ら彼女らの多くはファッションセンスやルックスにも秀でる部分が多かったこともあり、バブル時代には多くの出版社が「少女小説」を扱う文庫レーベルをつくり、市場に参入した。この時代には、世間から「オタッキーなSF本ばかり発行している」と見なされていたハヤカワ文庫も「スイート・ヴァレー・ハイ」シリーズという外国の少女小説シリーズを発行し、後年数々のスキャンダルを起こした元女流棋士林葉直子も「トンでもポリス(通称「とんポリシリーズ)」という作品を書いていた(それなりに面白かった記憶がある)。 しかしこの時期にデビューした「作家」の作品のほとんどは、作品の質・書かれる内容・文体そのいずれもが、読むに堪えず、多くの読者から「作家・作品の粗製濫造」「二戦級・三戦級の少女マンガ原作を『少女小説』として売り出しただけ」とバカにされた。バブル景気崩壊とともに、彼らの姿は一部をのぞき「文壇」から消え、その作品も多くが絶版になった。あの頃「先生」と持て囃されていた作家は、今どこで何をやっているのだろう?現在は「ライトノベル」が隆盛を極めているが、私からいわせれば、この分野も20年以上前に流行った「少女小説」と同じ運命を辿るのではないか?「少女小説」と「ライトノベル」は、30年後、50年後の日本文学研究者からは、どんな評価を下されるのだろうか気になる。 1990年代後半以降、彼女はほとんど作品を書かなくなる。Wikipediaでは「体調を崩しがちだったため」とあるが、個人的には、自分が活動範囲としていた「少女小説」の分野に、一定水準に達していない作家や作品が世間に多くなり、自身と自作が彼らと同類にされるのを嫌ったのではないか?と推察する。もしそれが本当なら彼女の沈黙は、作家・作品を粗製濫造する出版界への、無言の抗議なのかもしれない。 彼女は2008年、51歳の若さで亡くなる。出版された作品は一部がネット上の「青空文庫」や新装版の形で復刊・再版されただけで、ほとんどの作品が絶版になっているのは、彼女の業績から見ると、不当といわざるを得ない。2018年で没後10周年になるから、それにあわせて彼女の作品の再版をして欲しいと思うファンは、私だけではあるまい。

「2016年6月の読書リスト」

早いもので、今年も半年が過ぎた。今年(2016年)は参議院選挙がある。今回の選挙でどんな結果になるのか、正直言って怖い。皆様ご存じの通り、与党は今回の選挙で全議席の2/3を占めることを目標にしている。そうすれば、安倍政権の悲願である「憲法改正」の実現に一歩近づくことになる。 だが、有権者は本当に自民党を勝たせてしまうのか?そのカギを握っているのは、1人区の情勢である。前回の参院選で、与党勢力は29勝と圧倒した。しかしその原因は、野党系候補が乱立して共倒れになったからで、与党系候補の得票率は半分に満たない。前回の参議院選挙では、野党系候補の得票率が与党を上回ったところも多かった.そのため心ある多くの有権者は「なぜ野党は大同団結できないのか?」と怒りの声を上げた。野党各党が候補者を絞り、票割りをうまく配分していたら、結果は違っていたと指摘する識者も多い。彼らも前回の苦い教訓を生かす姿勢はあるようで、今回の選挙では野党(民進・共産・社民・生活)合同の統一候補を立てて、これに対抗しようとしている。今回やっと有権者の要求が通ったが、中心野党の民進党内部では、この期に及んで「共産党との共闘はイヤだ」などとガタガタ言っている。自民党に不満を持つ保守層が増えているにもかかわらず「共産党と組めば、彼ら保守層が逃げる」という議員がいるのだ。この党の「政治センス」のなさは今に始まったことではないが、この体たらくを見ると、政治に絶望を感じる人たちが増えるのも当然だろう。 今回の選挙から、選挙権が18歳からに引き下げられる。おそらく安倍政権は「若者の保守化」を見越し、今だったら選挙で勝てると思ったのだろう。昨年の安保法制反対で名前を売ったSEALDsは確かにがんばっているが、彼らに続こうという若者の動きが見られない。元外務官僚の孫崎享氏は「日刊ゲンダイ」のコラムで、自民党を支持すると回答した東大新入生が3割、安全保障法制の成立を「評価する」「どちらかといえば評価する」と回答した学生が4割を超えたことについて、強いものに取り入ることしか考えていないと嘆いていた。しかしそんな年寄り世代の諫言も、若者の耳には届かない。自分たちと同じ世代、同じ階層としか交流を持たないのが、今の若者である。だから、私は期待していない。21世紀の15年間で、日本は怖ろしく醜い国になってしまった。これから日本はどうなるのだろう?考えるだけで怖ろしくなる。 それでは、先月読んだ本の紹介である。

 

超・反知性主義入門

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「資本主義と自由 」

この本は、世界中に貧富の差を拡大させる原因を作った「グローバリズム」の理論的支柱であり、ブッシュ政権下で多大なる影響力を持った「ゼネコン」一派の師匠的存在である、ミルトン・フリードマンの代表作である。この本は今から半世紀以上前に書かれた(1962年刊行)が、驚くべきことに彼は、その頃から「もっと自由を!」と叫び続けていたのである。 本書について記述する前に、フリードマンについて知らない人が多いようなので、この機会に調べてみた。 筆者は1912年、ユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれる。飛び級により15歳で高校を卒業後、コロンビア大学など3つの大学で学ぶ。シカゴ大学では経済学を専攻し、同大学を卒業後に進学したコロンビア大学で博士号を取得した後、アメリカ連邦政府コロンビア大学に勤務する。その後母校シカゴ大学で教鞭をとり、後進の育成に尽力した。ニクソン大統領政権が発足すると、大統領経済諮問委員会のメンバーに就任する。同委員会在籍時代の業績として、1969年に変動相場制提案があげられる。このほかにも世界各国で政策助言活動を行い、1982年から1986年まで日本銀行の顧問を務める。その功績をたたえられ、1986年に日本政府(当時の総理大臣は中曽根康弘)により、勲一等瑞宝章(現:瑞宝大綬章)を授与された。 1976年、消費分析・金融史・金融理論の分野における業績と安定化政策の複雑性の実証をしたとして、フリードマンノーベル経済学賞を受賞した。しかし本人は 「私は、ノーベル賞がよいことであるのかどうかについて、大きな疑問を抱いている。ただし、そのようなノーベル経済学賞についての疑問は、ノーベル物理学賞についても同じく当てはまる」 と語るなど、ノーベル賞について懐疑的な意見をしている。彼は世界各国で政策提言活動をしたが、その中にチリがあった。当時のチリの政権は、国民に強権的な政策を行っていたピノチェト将軍が率いていた。そのため、彼は同政権と密接な関係を持っていたのではないかと、各方面から疑われた。経済学に限らず著名な学者は全員、彼の受賞に異を唱えた。彼の受賞に異を唱えたのは、一般市民も同様だった。授賞式が行われたスゥエーデンでは彼の受賞に抗議するため、数千人規模のデモ行進が行われた。しかしフリードマン本人は、チリ政府との関わりとはないと主張した。ストックホルムのデモについても 「ナチズムの匂いが漂っており、鼻が腐りそうだ。言論の自由において、都合の悪い発言を抑え込むようなやり方は許されない」 と発言し、デモ行進を非難した。1988年、アメリカ国家科学賞と大統領自由勲章を授与された。2006年11月死去、享年94歳。 本書は皆様ご存じの通り、彼の唱える「新自由主義」理論をまとめた一冊である。 「新自由主義」とは、一言で言えば「市場のことは市場に聞け」、つまり私に言わせれば「市場性善説」といっていいだろう。この本は徹頭徹尾 「市場に生き残れるものはみな良い物である」 という考え方で一貫している。彼に言わせれば、ありとあらゆる規制は「市場の邪魔」であり、市場を通過したものは未来永劫まで残る、ということである。市場に任せれば世界は幸福になる、戦争もなくなる、貧困問題もなくなる。だから、人々は「市場」という名の「神様」にハイハイと従っていれば、みな幸せになれると熱心に説法する「市場教」開祖様の姿がここにある。彼を支持する人間によれば、経済学の世界では「市場は民間経済で作ることが前提で、政府はそれを是正する立場にある。だから国営を主張するのであれば、政府が 「市場の失敗を論証しなければならない」 のだそうだ。 へぇ、そうですかい?「民間で採算が取れない分野は政府がやらなければならない」と、高校の「現代社会」の教科書・参考書には書いてあるはずですが。「民間企業」は、お金にならないことには手を出さない。採算の取れない事業に手を出して赤字決算になったら、普通の企業は経営陣が変わるし、下手をすれば法律で処罰される。これは中学生でもわかることだ。つまりフリードマンと彼を支持する連中は 「金にならないことには手を出してはいけな い」 といっているに等しい。 小泉内閣が推進した、一連の「構造改革」は、彼の理論を下敷きにしている。その結果、日本はどうなったか?ありとあらゆる分野で不正が横行し、エゴイズムが跋扈し、貧富の差が拡大した。「金儲け」のためなら平気でウソをつく輩が続々と誕生し、結果日本国内でまことしやかに語られてきた「安全神話」は崩壊した。崩壊したのは「安全」だけではない。未来も、雇用も、人々の「心」の安定も、社会保障も、そして年金も。 貧富の拡大は人心の荒廃を生み、治安は悪化し、精神状態に異常をきたす人も増えた。金持ちは、不幸な立場に立たされている人たちを慮るどころか、逆に「自己責任」だの「できない人間が悪い」という言葉(というより「フレーズ」に近い)で、彼らを突き放す。お上が「国民」という従順な羊にかような概念を吹き込んだ結果、本来ブルジョワ階級が持つべき「高貴なる者の義務」という精神は、きれいさっぱり消えてしまった。近年日本で頻発しているツアーバスの事故だって、常軌を逸した「規制緩和」がなければ、本来なら起こらなかったであろう。 2007年から2008年にかけて、アメリカで発生した「サブプライム住宅ローン危機」と「リーマン・ショック」は、フリードマン一派が推進した「新自由主義」のなれの果てだといえるだろう。政府が金融機関に資金を投入すべきか否かを巡り、アメリカの世論は真っ二つになった。議会や民衆は 「ウォール街で何十億も稼ぐ連中のために、われわれの血税を投入するな」 と絶叫したのに対し、「ウォール街」で働く人たちは 「このままでは国全体が立ち行かなくなるから助けてほしい」 と哀願した。結果として政府から金融業界に多額の資金が投入されたが、それに反発する人たちはウォール街で 「我々は99%だ!」 と絶叫しながらでも更新する光景を、覚えている人も多いだろう。マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「キャピタリズム~マネーは踊る~」は、この騒動を題材にした作品である。 1990年代後半末期から広がった「グローバリゼーション」は、「富める者」と「貧しき者」の格差を広げた。テロや戦争、地球温暖化に代表される環境問題はもちろん、今日(2016年6月24日)決まったイギリスのEU離脱も、突き詰めれば「グローバリゼーション」の悪影響といえるだろう。混乱が深まり、いっこうに光が見えない世界の現状について、彼は天国からどんな思いで見ているのか、今となってはそれを確かめる術はない。だが冒頭に掲げられている巻頭言を見る限り、彼の頭の中には「どうだ、時代が俺に追いついた」という高笑いしか伝わってこない。不幸で苦しんでいる立場の人間を、彼は一顧だにしないだろう。 この機会に、彼の理論を頭に入れておくことをお勧めする。 そして、彼とその信奉者が犯した罪も、この目でしっかりと確かめておくべきだろう。