Révision Du Livre

平和を愛する男がチョイスするブックガイド

「2016年5月の読書リスト」

今年も6月がやってきた。今週、気象庁は九州から東海地方が梅雨に入ったことを告げた。既に沖縄は梅雨に入っているが、震災の後遺症から未だに立ち直れない熊本県民にとっては、この上なく鬱陶しい梅雨になることは確実だ。全ての被災者が、仮設住宅には入れるのはいつになるのだろうか。自分の住んでいるところが、あれだけの大規模震災に見舞われたらと思うとゾッとする。 話は変わるが、自宅にBSを入れてみた。ただでさえカツカツな生活なのに、お前は何を考えているのかと当初は文句を言っていた母だが、自分の好きな韓国ドラマを見放題と知ったとたん態度が変わり、今では夢中になってテレビを見ている。 確かに、BSの世界は面白い。だがこの世界は、私みたいな「経済弱者」には実につらい。面白そうな番組は、それなりの視聴料(2,000円~税抜/月)を払わないと、見ることができないチャンネルが多いからだ。また提供されるチューナーも、USBケーブルで接続できるレコーダーがないと、全くの役立たずである。録画して再生するとき、レコーダーが古いと、画面がハイビジョン(以下HV)幅にならない(いわゆる「標準画質」)。最近はチューナーの性能がアップしたので、旧式レコーダーでもHVで再生できる。だが画面幅がHVになるだけで、画質が向上するわけではない。テレビの画面設定を調整するだけでは限界がある。本来の画質を堪能するためには、外付けでもいいからハードディスク(以下HDD)を買わないといけない。 つい先日、私はお金を貯めて外付けHDDを購入し、付属のUSBケーブルをチューナーに接続して番組を録画・再生したところ、現在使っているレコーダーで再現される画質とは比べものにならないほどきれいな画面だった。さすが最新鋭のHDはすごいな…と思っていたら、購入してたった一週間で、HDDの調子がおかしくなってしまったではないか!再起動を繰り返し、チューナーの接続をし直しても、いっこうに不調から立ち直る気配がない。 原因として考えられるのは、室温・湿気(この二つは。PC及びその関連部品の大敵である)が前日より上昇したため、基板内の温度が高くなって働きが悪くなったこと、長時間(といっても数分~長くても2時間ほど)複数番組を同時に録画していたこと、録画しながら録画済みの番組を再生していたことだろうか。それ以外に思い当たる理由がなく、もちろん乱雑に扱ったことはない。前日までサクサクと動いていたので、誰かが細工した可能性もない。まさか工場から出荷~店舗に搬送される途中で落下した製品が、そのまま私の手元に来たのだろうか?疑えばきりがないが、はやく元に戻ってもらいたい。これ以上の出費は勘弁して欲しい… …と思っていたのだが、夜になって、気温が低くなったからか、それとも冷房が効いてきたのか、やっとHDDの調子が戻った。だが本日録画したドラマ・映画は画像が乱れたまま録画されたため、泣く泣く消去することになった。その中には、いつ放送するのかわからない作品もあるから、心理的ダメージは大きい。「夏バテ」する機械なんて、人間みたい…なんて、冗談じゃない。その後も、同時録画していた映画が、途中で録画できなくなったりとトラブル続き。その後も、HDから異音が出る度に心臓が痛くなったりだったが、とうとう我慢の限界がやってきた。見たいアニメが同じ時間帯に放送されるので録画設定したところ、再生された番組は二つとも短時間しか録画されなかったのだ。結局購入店に相談の上、新品と交換してもらうことに。その後Webを見たら、製造元のサポートセンターについての不満が出るわ出るわ…あああ、早くお金を貯めて、本機レコーダーを買わないと。

さて、先月読んだ本の紹介。 コミックが多かったのは、膝を痛めて毎日のように通院しており、通院先に置いてある作品を読む時間があったからだ。

 

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「紀伊國屋書店新宿南店閉店へ」

私はゴールデンウィークに、紀伊國屋書店新宿南店(以下「南店」)を訪れた。店内にはお目当ての本を求めて大勢の人で賑わっていたので、巷間囁かれる「出版不況」というのはさほど感じなかった。 だが、その影で危機は深く静かに進行していた。それがこの記事。 [blogcard url=”http://biz-journal.jp/2016/05/post_15142.html″] タカシマヤタイムズスクエア(以下「TS」)に南店が開店したのは1996年だが、新宿に足を運んでいる人の多くは 「なぜ同じ地域に、同じ書店グループが、本店と同じ規模の大型店を開設するんだ?」 と思ったに違いない。その理由が、他の大型書店チェーンに縄張りを食い荒らされることを嫌った紀伊國屋書店が、損を承知で進出したというのが真相らしい。彼らが思っていたとおり、それからしばらくして、三越新宿店の3フロアを借り切る形でジュンク堂書店が進出してきた。もし南店が開店しなかったら、ジュンク堂がそこに進出したはずだ。1996年はインターネットが普及して間もない頃であり、当然のことながらネットショッピングという概念はない。ベストセラーも多かったから、同規模の店が2つあっても十分元は取れると判断したのだろう。だが新宿にブックファーストが進出し、アマゾンが急速に需要を伸ばしたことに加え、長年の出版不況もあり、その経営は火の車だったようだ。 [blogcard url=”http://toyokeizai.net/articles/-/118264″] TSに進出したのは、当時社内で絶大な権力を握っていた社長の意向が大きかったといわれる。だが月額の家賃が8,000万円、しかも一棟丸ごと借り切る形での契約だったため、エレベーターや避難階段の管理費、公共料金を加えると同社の年間負担額は10億円近くになった。黒字決算になったのは開店年度だけで、以後は毎年のように巨大赤字を計上し続けた。2009年に年間賃料を1億円以上減額することに成功したが、2012年3月末の三越新宿店閉鎖に伴うジュンク堂新宿撤退は、南店には追い風にならなかったのは大誤算だった。開店当時80億円あった売り上げも、現在の売り上げは30億円ほどにすぎない。今回撤退を決断したのも、大家である高島屋との家賃交渉が決裂したからだ。南店出店が、経営上において致命的なことになるという声は、社内にもあった。それができなかったのは、契約時に「20年間は解約できない」という、紀伊国屋には不利な条件があったからである。今年契約期間満了になることから、最上階の紀伊国屋シアターと6階の洋書フロア以外の売り場を閉鎖することにしたそうだ。7月いっぱいで1−5階の売り場を撤去し、そのあとにはニトリが入る予定だそうだ。 [blogcard url=”http://www.fashionsnap.com/news/2016-05-19/nitori-takashimaya-shinjuku/″] なぜ大家である高島屋は、紀伊國屋書店と賃料で折り合えなかったのか。それは、百貨店業界が抱える苦境が背景にある。その原因として少子化と不況、そして広がる一方の格差があげられるだろう。これらの要因が重なり合った結果、百貨店最大のお得意様だった「中間層」は壊滅し、日本から消えてしまった。 「国民総中流」の時代、中間層の旺盛な購買力が、百貨店業界の売り上げを支えていたことは確かだ。この時代は「物質的充実感」だけでなく「知的充実感」を求める人が多かった。彼らの知的欲求を満たすため、百貨店は書店を設け、美術館を開いた。小田急伊勢丹(現:三越伊勢丹)は建物最上階に美術館を設置し、旧三越、旧西武、東武は独立した建物を作るほどの熱の入れようだった。 しかし長引く不況のために、業界は美術館を持つ余裕がなくなった。百貨店業界は目先の利益に拘り、文化を捨てたのだ。三越美術館の跡地は大塚家具ショールームになった。旧西武系のセゾン美術館跡地には、北欧家具を扱うイルムスを経て、現在は無印良品が入居している。小田急伊勢丹亮美術館の跡地は別のテナントが入り、東武美術館は現在ルミネ池袋になっている。関東圏のデパートで、美術館を持つのは「そごう」だけになった。 今回の紀伊国屋撤退劇も、おそらく高島屋が「文化」を切り捨てる方向に走ったから、といえるかも知れない。上流階級から得られる売り上げは限りがあるし(呆れることに、あれだけ新自由主義を信奉する学者たちが力説していた「トリクルダウン」なる学説は、彼らの手で存在しなかった事が証明された)、中国人の「爆買い」も、いつ終焉を迎えるかわからない。高島屋経営陣はニトリの入居で、これまでと違った客層を呼び込むことで、より安定した家賃収入源を得ることを狙っているようだ。 南店は以前から、本店との棲み分けに苦戦しているという声が絶えなかった。今回の訪問で、さもありなんと実感した。 同じ建物に劇場があることもあり、演劇・映画・美術関係の本は、新宿界隈の大型書店の中でも充実している。しかし、それ以外の売り場が何とも中途半端なのだ。 その代表なのが4階の売り場。ここは文庫・新書がメインなのだが、重要なジャンルであるはずの「選書」が一冊も置かれていない。文庫も新書も一通り揃ってはいるが、肝心の品揃えがかつてのダイエーよろしく「何でもあるが、欲しいものがない」状態。特に岩波文庫の品揃えの悪さは致命的で、朝日文庫に至っては申し訳程度の品数しかない。その原因は2012年のリニューアルだと思う。3階にタリーズコーヒーを入れたため文学書が4階に移動になり、いままで新書、文庫に割り当てられたはずのスペースが消えてしまったからだ。新宿界隈で朝日文庫岩波文庫が欲しいと思っている人は、ここだけはやめておきなさい。新宿で文庫・新書・選書を買いたい人は、コクーンタワーにあるブックファースト新宿店をお薦めする。 5階も「自然科学」「医学」「コンピュータ」の理系と「人文科学」「社会科学」の文系がごちゃ混ぜ。建物丸ごと一つ使っているのにこの商品構成は、他の書店ではありえない。仮に好奇心旺盛で知識欲が貪欲な人がいたとしても、それを支えるだけの収入がある人は、今の日本にはほとんどいないだろう。書店で「爆買い」する階層が現実に存在する国なら、このような構成もありかも知れない。だが今の日本では「バブル景気」に匹敵する大型景気でもやってこない限り、経営陣が思うほどの結果は出ないだろう。 皆様もご存じの通り、新宿は若者の街であるが、多種多様の人が集うところでもある。映画の分野では大型のシネコンもあるし、小劇場など演劇を上演する劇場も数多いのだから、いっそのこと「人文科学「自然科学」といった種類は本店に任せ、南店は「ラノベ」「マンガ」「文庫・新書」「映画」「演劇」、そして唯一残る「洋書」に特化した方が、好結果になったのではないかと思える。 「書店」という文化事業を営みながら「自分の縄張りをヨソ者に荒らされたくない」という、まるでやくざのような論理で出店を強行し、そして破綻につながった今回の事態。そういえばこの会社とゆかりが深い演劇界も、表面上は「文化の香り」を漂わせているが、現実は体育会系顔負けの厳しい上下関係を、さも当然のように受け入れる人が圧倒的多数なんだよね。稽古でも、教え子や後輩をしばき倒す講師・先輩が多いという噂は絶えないし、武道の有段者も多い。そういう意味では、この二つの業界は相性がいいのかも知れないね。 一ついえるのは、上層部の無謀な決断で泣かされるのは、弱い立場の人間だということだ。正社員はもとよりパート・アルバイトの非正規社員、そしてこの書店の常連さんたち…彼らが受けた傷は深いだろうな、と思うのだ。

「2016年4月の読書リスト」

今年も1/3が経過した。(←「昨年と同じ書き出しじゃねーか!」というツッコミはヤボというものです。ここの管理人さん、それほど頭はよくないので) だが昨年同様希望の光が見えないどころか、日本は本当に破滅するのでは?という恐怖が日ごとに増してくる。 14日に熊本を中心に発生した地震は、今日(2016年4月30日)現在1,000回以上も余震が起きている。 厄介なことに、今回の余震はおさまる気配がない。気象庁も「想定外の事態」だと茫然自失、対策のとりようがないと匙を投げている。 相次ぐ余震のために、車の中で一夜を過ごすという生活を送る住民も多い。余震による自宅崩壊、それに起因する圧死を避けるためである。 車の中で一夜を過ごす危険性は、誰もがみなわかっていることである。実際エコノミークラス症候群で、複数の被災者が命を落としている。 従来の耐震基準も、今回は役に立たない可能性が大きい。ひっきりなしに起こる地震のために、建物にかかる負荷が蓄積し、ちょっとした地震で建物が崩壊する可能性が高まっているからだ。それなのに、安倍政権の動きは思い。「3.11」の時ですら、地震発生翌日に激甚災害指定されたのに対し、安倍政権が熊本地震激甚災害に指定したのは先月25日。ここまで遅れたのは、その前日に衆院選挙補選が行われ、それを受けて「私が決断した」という形をとりたかったからとも、熊本県知事との関係が悪かったからだといわれているが、さて真相はいかに?

さてさて、先月読んだ本の紹介。 興味の方向が、社会科学から自然科学にシフトしているのは気のせいではなく、あえてそうしているのです。

 

数学する身体
数学する身体 森田真生 読了日:04月01日 評価5
 
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「二十歳の原点ノート 十四歳から十七歳の日記」

1969年6月24日未明 京都市内を通る山陰本線を走る貨物列車に 一人の若い女性が飛び込み自殺した。 死後、彼女の下宿の部屋から 10冊を超える大学ノートが発見された。 彼女の父親は、地元の同人誌にその日記を載せたところ、大反響を呼んだ。 その日記は新潮社から発売されると 同時代の若者から熱烈な支持を受け 瞬く間にベストセラーになった。

女性の名前は、高野悦子。 1970年代のベストセラーであり、若者のバイブルといわれた 「二十歳の原点」シリーズの作者である。 没後40周年にあたる2009年 「二十歳の原点」シリーズが「新装版」という形で 改めて発行された。 第一巻は、彼女が日記をつけ始めた中学3年(1963年)から、大学受験を控えた高校3年(1966年)までに書かれた日記に加え 高校時代の読書感想文(「アンネの日記」)を収録している。

この本を最初に知ったのは、私が中学時代(いや、高校の時かな?)の時。 当時購読していた雑誌(「中学or高校コース」)に 「わずか20歳で鉄道自殺した女子大生の日記。死後出版されて大ベストセラーになった」 と紹介されていたのを目にした記憶がある。 だがその時は 「ふーん」 といった感じで、どこか他の世界の話という印象しか持てなかった。2度目の出会いは、某資格関係の学校でアルバイトしていた10年ほど前。 たまたま立ち寄った本屋で、ふらりとこの本を手に取り、ぱらぱらとページをめくっていた。 夢中になって読んだ。 1960年代後半の学生運動の中で実際に起こった、どろどろとした世界。 著者はどんな人だろうとカバーの表折り返しに目を落とすと そこには「鉄道自殺した」という言葉が載っているではないか。 それが目に入った瞬間、雑誌に掲載されていた紹介文の記憶が鮮明に蘇った。 あの時読んだ雑誌に掲載されていた「自殺した女子大生の日記」というのは この本のことだったのか、と。 だがまたしても、私がこの本を手に入れることはなかった。 文庫本だし、その気になればまた手に入るだろうと思ったのだろうが 買わなかった理由は、今もよくわからない。

それから数年経過した2009年。 私は都内の書店にて この本と3度目の対面をする。 出版社が変わり、新装版になって復活したこの作品は 新刊書のコーナーに平積みになっていた 「この機会を逃すと、もう2度と出会えない」 5分後、私の鞄の中にはこの本があった。 2度目の時と同様、夢中になって読んだ。

この本を見て感じたことは 「時代は変わっても、学生が抱える悩みは永遠に不変なのだ」 ということ。 勉強。進路。夢。そして家族のこと。 みじみずしい感性(「お前なんかにいわれたくない」といわれそうで恐縮だが)で綴られるその世界は 時にいとおしく、時に切なく、そして時に哲学的だ。 「心臓弁膜症」という難病(後に「誤診」と判明する)を抱えながらも 彼女は、精一杯命の炎を燃やしていく。

はたから見て、彼女は恵まれた家庭環境に育ち 誰もがうらやむような学校に通いながらも(「県下一」の女子校出身である) 彼女の心は、いつも孤独だった。 成績向上を切に祈り 部活(バスケットボールの選手、後にマネージャーに転向)と勉強の両立を目指し 常に真の友を求めながらも 些細なことに傷つき、嘆き、悩む彼女。 「今やらなければいつやるの!」とわかっていても 目の前の快楽に走ってしまう女子高生。 人間関係をうまく築けず 友人にコンプレックスを抱いている作者。

そんな作者も、高校3年になると 明確に自分のキャリアプランを描くようになる。 当初は、簿記と英語をマスターすることを第一の目標にしていたが 「経済学部なり法学部なりを出ても女子の職業は限られている。 職業としてではなく、教養として学ぶのなら 私の性格からして、そっちのほうが適しているのではないか」 という理由で、彼女は大学で歴史学を学ぶことを決意する。 当時(1966年)は、大学を出ても男子と同等の職場が与えられるかという疑問が 彼女の頭の中にあったことは、日記でも触れられている。 第一志望を立命館にしたのは 歴史の重みを実感できる 「京都」という都市へのあこがれもあった。

中学時代の日記は、ところどころ「幼さ」が垣間見えるが 高校入学後、とりわけ高校2年生後半以降の日記は 哲学者としての顔を見せるようになる。 このあたりの心境の変化は興味深いが 今となっては、確かめるすべはない…

以下追記。 この本が約50年前より反響を得られなかったのは 「時代が違う」と思うしかないのだろうか? 当時は「一億総中流」」といわれるほど 生活に余裕がある人たちが多かったが 今は「自分たちの生活を守ることで精一杯」 という学生がほとんど。 彼らにとって「高野悦子」とは、もはや 「別世界の住人」 に過ぎないと思っているのだろうか。 そうだとしたら、あまりにも哀しすぎる……

「アメリカは、キリスト教原理主義・新保守主義に、いかに乗っ取られたのか?」

2008年に行われたアメリカ大統領選において、民主党候補バラク・オバマが勝利を収めたことに、安堵の声を上げた人はおそらく多いだろう。2001年に発足したブッシュ政権は、「京都議定書」からの離脱宣言に始まり、国際刑事裁判所条約の批准拒否、「9・11」から「イラク戦争」等々、複雑になる一方の国際関係に深刻な禍根を残すのではと懸念される政策を、次々と強行してきた。国内政策においても、2005年8月末にニューオリンズを襲ったハリケーン「カテリーナ」の後始末でも後手を踏むなど、その手腕に疑問を持たれることも多かった。そのため、2009年から発足するオバマ政権は、ブッシュ政権よりもかなりよくなるのではないかという見解を表明する、国債関係学者やメディア関係者は多かったに違いない。だがこの本を見る限り、アメリカに深く根付いた「原理主義」「宗教右派的」な考え方は、オバマ政権になっても簡単に衰えないだろう。なぜなら宗教右派に代表される原理主義者たちは、長期にわたってアメリカ国内世論の「右傾化」に力を注いできたからである。 筆者は、この本で 「左派・リベラル派は簡単に結果をほしがるが、右派とりわけ『宗教右派原理主義者』といわれる面々は、自分の目的を達成するために時間とお金をたっぷりかけ、徐々に自分の思い通りの結果になるよう世論を導く工作をする」 と指摘する。言い返せば、アメリカがまともな国になるためには、今宗教右派がやっている工作を、左派・リベラル派がやらなければならないのだ、と警告する。彼ら宗教右派原理主義者の思考の根底にあるものとして、著者は「聖書(これですら著者から見れば、でたらめでおぞましいものである)」の存在をあげる。われわれは神によって作られたものである、この世の生物は、神によって創造されたものである、と。驚くべきことに、アメリカ国内において、ダーウィンの「進化論」を否定するクリスチャンは、アメリカ国内で6割を超えるという。「進化論」を否定するだけでも問題なのに、彼らにとっては地球温暖化の問題ですら「神が与えた試練」であり、神を信じるものだけが救われるのだと頑なに言い張る。 原理主義者に代表される「宗教右派」と言われる人たちの過激な主張は、公教育の現場に「聖書」を教えるよう要求するだけにとどまらない。科学教育の現場を否定するだけでは気が済まないらしく、科学研究結果のデータですら自分たちの都合のいいように改ざんするよう要求する。実生活においても社会福祉という概念を公然と否定し、上流階級の教育費の増額を要求する一方、下層階級の教育費削減をなんとも思わない。階級格差や人種差別に反対する人たちは、神を信じない人間だから救う必要がない。これが彼らの主張だが、この本を見る限り「宗教」って、いったいなんだろうと思ってしまう。「宗教」は人を幸せにするためにあるものだが、ここでは「自分と違うものは差別の対象」という意味で使われてしまっている。 彼らの主張の成果が、2007年以降全米各地で湧き起こった「ティーパーティー運動」である。2008年アメリカ大統領選における、共和党の副大統領候補サラ・ルイーズ・ペイリンは、ティーパーティー運動関係者から圧倒的支持を受けたものの、いざ選挙戦になると、ペイリンは副大統領としての資質を疑われる発言を連発し、結果的に共和党敗戦の戦犯の一人となってしまった。そのためこの運動は一時期低迷したものの、2014年の中間選挙において、彼らは未だに侮りがたい存在である事を見せつけた。全米を代表する新聞であるニューヨーク・タイムズの著名コラムニストは、2010年に掲載したコラムで、この運動はアメリカ国内経済の低迷による景気後退を背景に、既成政治への不満や閉め出された不満分子の受け皿となったと背景を指摘した。その上で彼はこの運動を今後10年を特徴付ける政治運動となる可能性があると述べ、ティーパーティーがいずれ共和党を支配するだろうと予想した。 もちろん、ティーパーティー運動の関係者が全員共和党を支持しているわけではなく、支持する政策が合致する候補者を支援すると答える人が大部分を占める。しかしこの運動の主宰者の中には 「ティーパーティーは共和党に従属するような関係を望んでいるわけではなく、我々は共和党を敵対買収するつもりだ」 と発言するものもいることから、この精力が共和党を乗っ取るのでないかという見方がかねてから有力視されていた。今回(2016年)の大統領選において、ティーパーティーが積極的に支持するドナルド・トランプが旋風を巻き起こしていることから、彼らの予想は見事に的中したといえる。トランプ候補は、共和党候補者として出馬しているが、彼の外交政策が、共和党の伝統的な政策と全く異なっていることから、共和党の重鎮と言われる政治家を中心に、彼を共和党の大統領候補にするのを阻止しようという動きが急速に高まっている。しかしトランプを支持する共和党員は、この動きに対し猛烈に反発する姿勢を見せている。そのためアメリカのメディア関係者及びアメリカ政治の研究者からは、最終的に共和党は、彼らタカ派の極右勢力に乗っ取られてしまうのではないか、という意見を持っている人も少なくない。 ニューヨークやワシントン、サンフランシスコなどの海岸部や都市圏から発信されるメディア記事だけで、アメリカの国内情勢を判断すると大やけどする。オバマ当選は、まだ少なからず残っているアメリカ有識層が決起した結果でもある。だが宗教右派原理主義者といわれている連中は、金集めのための財団だけでなく、自前の教育機関(研究所、大学などの各種学校)と報道機関(新聞・テレビ・ラジオ)を持ち、その傘下に信徒団体(教会・集会所・各種団体)を持っているので、政権が右から左に変わっても、民衆の性格は簡単に変わらないだろうというというのが著者が出した結論だ。この本は、カルト宗教が力を持つアメリカの暗部を暴露しているといえるだろう。彼らは今回の大統領選で、どのような投票行動をとるのか?そして自分たちの胃に染まらない候補が大統領に就任し続けたら、どのようなるのか?考えただけでゾッとするといわざるを得ない。

「2016年3月の読書リスト」

無我夢中で世間の荒波を乗り越えていたら、あっという間に4月である。今年も⅓が経過したということである。だがその実感はない。 それにしても、次から次へと国民に喧嘩を売っている安倍政権に呆れてしまう。今度は「保育所」の問題で爆弾が破裂した。 保活(保育所を探す活動ー認可・無認可問わずーを、世間一般ではこう呼ぶ)のストレスがたまった一人の母親が「保育所落ちた日本死ね!!!」という記事をブログに書いたところ、その記事が国会で取り上げられて大騒ぎ。本来なら野党議員の指摘に対し、平身低頭するのが筋ってものなのに、安倍はよりによって「誰が書いたかわからない」と答弁し、与党議員も援護射撃のつもりか、口汚くかつ品性を疑うヤジを飛ばしたからさあ大変。Twitter上では「#保育所落ちたの私だ」というタグができるわ、もともと保育士は給料が安い割に激務だというので人材定着がうまくいかず、これまたTwitterで「#保育士辞めたの私だ」というタグができて、ネット上は大騒ぎに。そんでもって、今回も国会前でママさん、現役および元保育士らが人が国会に集まり「保育所落ちた〜」「保育士辞めた〜」というプラカードを掲げてシュプレヒコールの大合唱。それでもママたちの怒りは収まらず、街頭署名を集めて議員に請願したが、さてさてこの先どうなることやら。おそらく安倍は「参議院選挙までに、彼女たちの怒りは収まっているだろう」とタカをくくっているに違いない。牧伸二が生きていたら、この話題もネタにして「あーあやんなっちゃった あーあ驚いた」といっていたのだろうか? 閑話休題 このブログも、先月で閲覧数が5桁を突破したようだ。カウンターを設置したのが一昨年の6月。各SNSで活発に宣伝攻勢をかけたのは半年くらい前なので、このブログもそれなりに認知度が高まっているのだろうかと、少しばかり嬉しく思う。以上、プチ自慢でした(苦笑)。

それでは、先月読んだ本の紹介である。

 

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「ブタカン!~池谷美咲の演劇部日誌~」

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