Révision Du Livre

平和を愛する男がチョイスするブックガイド

日韓サッカー文化論

 

将来を嘱望されたエリート 著者は韓国人初のJリーガーであり、1994年アメリカ大会1998年フランス大会と、サッカー・ワールドカップに2度出場した経歴を持つ人物である。 彼は10歳の時、先生に勧められたのがきっかけでサッカーを始めたが、医者か銀行員になって欲しいと思っていた母親はこれに反対だった。だがめきめきとサッカーの腕前を上げてゆき、エリートコースへの道を進んでいく。 1990年に初めて韓国代表に選ばれ、1992年のバルセロナ五輪にも出場するなど、将来を嘱望されていた彼に、運命を変える出会いがあった。日本サッカーの育ての親と言われ、日本サッカーがメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した陰の功労者といわれたデットマール・クラマー氏との出会いである。これまでは厳しい上下関係、何かあると体罰を加えられるというスパルタ環境に身を置いていた彼から見ると、彼の指導法は、とても新鮮なものだった。彼の素質を認めたクラマー氏の薦めでドイツでプレーを考えた筆者だが、徴兵制度がネックになってり、このときは海外でのプレーは実現しなかった。

売国奴」と罵られて それほどの選手が、プロ・サッカー選手としてのデビューをJリーグに選んだ動機は、できたばかりのリーグだったこと、ジーコリトバルスキーなど、往年の名選手のプレーしているJリーグで、自分がどれだけ通用するかを試したかったからだ。またこれからは英語の他に外国語をマスターしたいと思っていた筆者は、日本語の習得に情熱を注いだ。ひらがなとカタカナは1日でマスターし、カラオケで好きな曲の歌詞を日本語で書いてもらったりして、1年でほぼ日常会話に困らない程度の日本語をマスターした。そして2年後には、不自由なく日本語を自在に操れるようになったという。「韓国語と日本語は文法もにていて、単語も同じのがたくさんあった」とはいえ、生半可な努力ではできないことは確かである。 当然、彼の選択は韓国サッカー界での反発を呼ぶ。卒業時のKリーグ(現:Kリーグクラシック)ドラフトで、彼は油公(現:済州ユナイテッドFC)に指名されるが、それを蹴っての来日だったからだ。関係者はもちろん、マスコミからも「売国奴」と罵られたいきさつから、筆者は「失敗したら次はない」という悲壮な決意で日本にやってきたのである。

Jリーグでの活躍 彼はもともとDFの選手だったが、Jリーグ広島では、そのスピードをかわれてFWとしてデビューし、2年目の1994年には1stステージ制覇を成し遂げる(残念ながら、日本一にはなれなかったが)。だがその後はクラブ財政の逼迫もあってフロントと対立するようになり、1997年、テストを受けてオランダリーグ・エールディビジNACブレダに入団する。だがそこはケガとの戦いとの連続で、両足半月板損傷などに苦しむなど、思うような活躍は出来なかった。1998年開催された、サッカーW杯フランス大会に韓国代表として出場したが、ケガが災いして1試合だけの出場だけに終わり、チームも1次リーグで敗退する。 だが海外では「W杯出場」というのは一種のステータスだそうで、たとえ1試合だけでもW杯に出場したら、地元の人間にとっては英雄になるのだという。彼自身、この本の中でW杯出場前と出場後では、周囲が見る目が違ったと書いている。このオランダ滞在中にキムという韓国人の医師を知り、膝のケガの治療をしてもらうが、この医師の治療は彼のケガには効果的だったようで、ずっと苦しんできた膝のケガがオランダ滞在中かなりよくなった。そのシーズンは2ゴールをあげ、結構な数のアシストを記録したが(本人談)、オランダに根深く残る人種差別には我慢できなかった。最後は愛車を壊された上に携帯電話を盗まれ、それがきっかけで日本へ戻ってくる。 再来日後はセレッソ大阪の中心選手として活躍し、2000年の1stステージは優勝まで「あと一勝」としながら、最後の試合でVゴール負けし、2度目の優勝はならなかった。2ndステージでは、主力FW・西澤明訓のスペイン移籍とエース・森島寛晃の故障で思うような成績を残せなかった。さらに翌2001年1stステージも低落傾向から抜け出せず、その責任をとる形で彼はセレッソ大阪を退団する。いったんは韓国に帰国して母国のKリーグでプレーすることで話がまとまりかけたが、リーグの規則に反するということでこの話は流れてしまう。だがすぐに救いの手がさしのべられる。J2降格の危機に瀕していたアビスパ福岡から声がかかったのである。セレッソ大阪を見返したい一心で新天地での活躍を誓ったが、チームの主力選手に故障があいつぎ、運にも見放されたアビスパはJ2降格の憂き目にあう。だが筆者はチームメートに「1年でJ1に戻ろう」と声をかけたのである。そう、彼はチームの中では精神的支柱として、チームになくてはならない存在になっていたのだ。だが翌2002年シーズンの福岡はJ2でも低迷し、さらに彼はサポーターからの屈辱行為に深く傷つき、その年限りでチームを退団、母国へ帰国する。韓国では釜山アイパーク蔚山現代でプレー。釜山時代にはカップ戦優勝に貢献し、2006年に引退した。引退後はサッカー指導者を目指して渡米。現在は、韓国でゲーム会社の顧問をしているそうだ。

日韓サッカー界への提言 本書の締めくくりで、筆者は韓国と日本のサッカー界についても触れている。 韓国についてはだんだん環境がよくなり、ドラフト制度も撤廃されたので魅力的なリーグになり、日本や外国で経験を積んだ選手や指導者がKリーグに戻り、それが将来に大いにプラスになるだろうと触れている。実際、チャンピオンズ・リーグに見習って創設されたAFCチャンピオンズリーグACL)では、韓国勢が毎年のように上位に進出している。 本書が書かれた2002年の日本のサッカー界について、海外でプレーした経験は何物にも代え難いという反面、素質に恵まれながらもチヤホヤされてそれ以上伸びない選手が多いと、苦言を呈する事を忘れない。そのための対策として、生存競争に勝ち抜くことの大切さを教えることが大事であること、厳しい環境に身を置き、自分を追い込み、より上を目指す気持ちを持ち続けることが成長につながるのだと筆者は指摘する。また審判のレベルはその国のリーグのレベルに比例するから、審判のレベルアップも不可欠だと述べる。実際韓国のサッカーリーグは、低レベルの審判が跋扈したことで、観客動員数が伸び悩んだことがある過去があるそうだ。 最後に、この本を読んでみると、筆者の性格の良さがひしひしと伝わってくる。広島時代にお世話になった人とはいまだに交流があるという。ボランティア活動にも熱心な彼は、本の売り上げをすべて恵まれない子供のために寄付するといっているそうだ。

スポーツと徴兵制 本書では、韓国の徴兵制度がスポーツ選手にとっては最大のネックであると紹介しているので、これについてもさらりと触れたい。 韓国人の男性は、最大で2年半を軍隊で過ごさなければならない。スポーツ選手だって、一番活躍できる年代に好きこのんで軍隊にいく人間はいない。政府もその点を承知していて、既に実績のある人間は軍隊のチームにはいることで徴兵の代わりにしようという制度もある。さらにはアジア大会の優勝、オリンピックでメダリストになったら徴兵を免除する制度もあるのだが、この場合は向こう5年間は外国でのプレーはできないという条件が付くのだそうだ。徴兵を免れるために自分のカラダに細工をしたり、裏金を積んで徴兵免除工作をしたりという不正は絶えない。筆者はたまたま、腰の骨に異常があったとかで兵役免除になったが、こういうところに南北間の対立が影をさしているのである。「政治」が影を指しているのかと思うと、なんだかやりきれない。