Révision Du Livre

平和を愛する男がチョイスするブックガイド

「『週刊新潮』はなぜ、読者に読まれるのか」

本書のキャッチフレーズにはこうある。 「本書は、出版社系週刊誌の老舗『週刊新潮』を研究、分析していく本である」 だがこの文面を期待して本書を手に取った読者は、深い失望を味わうことになるだろう。

この作者の主張は、以下の一文に集約される。

「ジャーナリズムなどといって聞こえのいい言葉を唱えたところで、本が売れなかれば意味がない。暴論であろうと何だろうとうることこそが出版の価値であり、生業である」(本書p190「第7章 無慈悲な週刊新潮はなぜ買われるのか」より)

プロフィールによれば、作者は出版社に入社後、週刊誌、月刊誌を経てフリーライター・テレビコメンテーターとして活動するかたわら、マスコミ専門学校及び日本語学校での講師も務めているという。そういう経歴のためか、本書のテレビ・新聞に対する評価は辛辣(それも、かなり悪意がこもったもの)であり、その一方で、自分が育ってきた週刊誌・月刊誌に対する評価は極めて甘い。 実際、本書に出てくる「筆者の知人である有力週刊誌の編集長」は、このように述べている。

「ジャーナリズムという言葉は本作りを知らない人間のいうことではないのか。あくまで読者が喜ぶ媒体であれば、それでいい。売れることとジャーナリズムは無関係」(本書p63 「第2章 週刊誌とは、何か」より)

言い換えれば「週刊誌」なんて「売れる記事」を沢山掲載したら勝ち、記事が事実だろうがデマであろうが関係ない、我々が生きている「週刊誌・月刊誌」の世界は「雑誌が売れてナンボ、結果を残してナンボ」の世界であり、雑誌が売れれば裁判で訴えられようが、報道された側の人権・プライドが傷つこうが知ったこっちゃないと、白状しているようなものだ。作者が新聞業界を「高学歴のインテリが編集し、悪い人間が売る」と罵倒するが、正社員が偉そうな態度でアルバイトに振る舞い、安い原稿料と劣悪な条件をフリーライターに押しつけるのは、出版業界も同じのはず。自分の育った業界を、悪し様にいわない(いえない)のは、どの業界でも一緒だだろう。作者は「新聞は嘘を書かないのか、テレビは嘘を報道しないのか?」と問うているが、では「雑誌は嘘を書かないのか?」という質問には一切答えない。彼はメディアを批判するキーワードとして「メディアリテラシー」という言葉を使っているが、テレビ・新聞業界を批判しながら、雑誌問題が抱える問題について全く触れないのは、あまりにも公平性を欠くというものだろう。実際「週刊新潮」はこれまでに掲載記事が原因で、多数の訴訟問題を抱えているが、それについてはほとんど取り上げないのはなぜか?それは、作者が育った環境にあるといわざるを得ない。 さて本書は全8章で構成されるが、中身が薄いと感じられるのは、「週刊新潮」とは全く関係ない、雑誌業界の現状紹介に2章(約50p)を使っているからだろう。第4章も話の進行上他誌との比較があるとはいえ、「週刊新潮」の内容には半分しか触れられていない。その内容も簡単に言えば、他誌紹介は「ヌード」「アダルト」を強調し、『週刊新潮』は(ざっくりいえば)何でもありの雑誌であるとしかまとめていない。ライバル『週刊文藝春秋』と比較する項目もあるが、その内容は「なぜネタがかぶっていることが多いのか」という理由については、伝聞と憶測以外しか紹介されておらず、筆者が独自に取材した形跡が見られない。どうしてこうなった? 管理人が推測するに、発行元はそれなりの「メディア研究本」を作者に発注したはずだ。ところが、作者の取材力不足か、はたまた文章力・構成力不足からなのか、できあがったものは、とてもじゃないが単行本として世に出せるような(ページ数、内容両面において)ものではなかったから、もっと項目を増やせとでも注文したところ、雑誌業界の動向紹介という項目が付け加えられたのではないか。それでも2章50pという数字は多すぎであり、ちょっと頭のいいライターと編集者だったら、コンパクトにまとめるはずだ。 そんな書籍だから、残る章の内容も極めて薄っぺらい。第5章の内容は「週刊新潮の記者はしつこく、やられたらやり返す取材」となっているが、なぜ週刊新潮の記者はしつこい取材を繰り返すのか?この雑誌の本質に迫るには、発行元である新潮社の体質について、深い考察がなければこの手の本は執筆できないはずだが、本書では同誌の背景にあるものとして「週刊朝日への対抗心」と「愛欲まみれの人間関係」をあげるだけだ。あれだけ文体がとげとげしく、見出しもけんか腰なのは、それらも理由に挙げられるかも知れないが、もっと多面的な考察が必要なのではないか?文体の特徴も「やたらと読点が多く、文章がやたら長いので、読者にはしつこい印象を与える」と筆者は指摘するが、これだって文体に詳しい読者だったら、簡単にわかってしまうだろう。 「『週刊新潮』にタブーはない」と筆者はいうが、私に言わせれれば、この雑誌にだってタブーはある。私が見る限り、この雑誌は警察の闇と原発問題に切り込んだことは一度たりともないはずである。前者については、小泉政権が制定した「個人情報保護法」について、ライバルで体質も似通っている『文藝春秋』を含めて,ほとんどの週刊誌が「反対」の意思表示を示したのに、この雑誌は一度として載せていない。原発問題に至っては、反原発派を徹底的にこき下ろす記事ばかり掲載しているが、これについては本誌が、電力業界から多額のスポンサー料を受け取っていることが、ネットジャーナリズムによって明らかになっている。警察の問題についてもほとんど触れないのは、『週刊新潮』編集部と公安警察が昵懇の仲であるということが、まことしやかに囁かれているが、真相は藪の仲である。 この雑誌を見て思うのは「弱いものいじめが好きな雑誌だな」ということ。 権力者叩き、大いに結構。だが私が気にくわないのは、この雑誌が本質と違う手法で対象を叩くということ。第5章第2項目「広告でも攻撃主義」で紹介される中吊り項目で紹介される見出しと本文の内容は、品性を疑わずにいられないほどである。これが海外だったら、取材された側は「精神的苦痛を負った」と訴えることは確実だ。 自らの資金疑惑発覚ついでに、整形疑惑まで取り上げられた猪瀬直樹前都知事。他にも恋人との関係をあれこれ詮索された有名スケーター、「生活保護すれすれで暮らしている」と名指しされた有名タレント、身内が生活保護を受けているとして噂された参議院議員…。書かれた方はたまったものではないが、ターゲットが犯罪者、それも未成年だと攻撃のトーンは、大人の時よりも一段と高くなる。真っ当な新聞・雑誌だと「容疑者は、これだけ苦労していた」という調子の記事なるが、週刊新潮だと、一切憐憫の情がまるでなくなる記事になる。彼らが常日頃から忌み嫌っている共産党市民運動団体、そして『不倶戴天の敵』朝日新聞を扱った記事は、もう見るに堪えない文体になる。俺たちは民衆の鬱憤を晴らしてやっているんだ、文句あるのか?という意図が垣間見えて、非常に不愉快である。 私は『週刊新潮』がなぜ売れるのか?と聞かれると「人の不幸をのぞき見して、悦に入る人間が沢山いるからだ」と答えるだろう。そんな人間が、毎週全国に50万人発生する。考えただけでぞっとする。

作者が勤めていたという週刊誌・月刊誌のジャンルは何か?と思ってインターネットで検索してみて「さもありなん」と思った。 彼は「エンターテインメント業界」の雑誌編集者だったのだ。 これらの業界で、彼は「芸能人」相手に「よいしょ記事」を書いてきたのだろう。 そんな人間に、真っ当なメディア批判を期待する方がバカなのだ。

何はともあれ、今の「出版業界関係者」が何を考えているのか、よく理解できた。 こんな人間ばかりでは、本だって売れなくなるわ。