Révision Du Livre

平和を愛する男がチョイスするブックガイド

「ソロモンの偽証第三部 法廷」

いよいよはじまった「学級内裁判」。 「事故」か「事件」か。 「自殺」か「他殺」か。 「有罪」か「無罪」か。

学校当局の圧力、被告人の父親の逮捕、元担任の襲撃事件など、次から次へと押し寄せる想定外の出来事を乗り越え、学生達は「学級裁判」の開催にこぎ着ける。大人達が指摘するとおり、この法廷に下される「判決」に法的な意味はない。しかしこの裁判は、判事・弁護士・検事・被告人・各サイドの事務官・廷吏・陪審員・傍聴人と、正式な形式に則って実施されることに意味がある。法廷内では、判事の指示は絶対だ。彼の命令に従わない人間は、生徒だろうと保護者だろうと誰だろうと警告の木槌が打ち鳴らされ、それでも従わない者は、廷吏によって力尽くで退廷させられる。ここでどんな審理が行われ、どんな判決が下されるのか。生徒も保護者も、その行方を固唾を飲んで見守る。

「本件は空想です。被告人は無罪です」 弁護人の発言にどよめく廷内。城東三中の教師・生徒は、被告人に“問題児”というレッテルを貼り、彼らが犯人だという空想を作り出し、彼をスケープコートに仕立てたのです、と。彼の繰り出す弁論と論理の組み立て、その鮮やかな手腕の前に、法廷内は「被告人は無罪」という雰囲気が漂う。検事役を務めるヒロインの顔はみるみるうちに紅潮し、目はつり上がり、歯噛みする。その後も激しく展開する「犠牲者の正体」「事件当夜の被告人達のアリバイ」に関する、弁護・検察両サイドの激しい攻防。「被告人は無罪」という事実が確定した後の、弁護人が被告人にとった、通常の法廷審理ではありえない行動。そしてついに明らかになる、あの日あの場所で起こった事件の真相…

第三者から見れば「生ける仙人のようだった」犠牲者。だがその正体は、希代の悪党。 表面的には「いい子」を装いながら、身近な人を騙し、傷つけ、苦しむのを見て平然としている「愉快犯」という名の悪魔。小説でははっきり書かれていないが、彼はおそらく多重人格者かつサイコパスなのだろう。なにがきっかけで彼がこんな性格になったのか、作中では明確な描写はない。彼に関して読者に与えられている情報は、子どもの頃から病弱であり、両親はそんな彼に惜しみない愛情を注いできた、ということ。彼らからすれば「健康に育って欲しい」という一心で彼に接してきたのかも知れないが、それが彼の性格形成に重大な影響を与えたのだとしたら、何とも皮肉なことである。

この作品を通じて、作者が訴えたかったのは以下の二つ。 一つは、人を見かけで判断してはいけないということ。 もう一つは「空気を読む」ことを気にするあまり、自己を殺してはいけないということ。 前者に関しては、確かに被告人の以前の行動には問題があった。本人の粗暴な性格と言動に加え、本校出身者でもある彼の父親は、息子が不祥事を起こす度に学校に怒鳴り込み、教職員とトラブルを起こすなど、関係者は彼らの扱いに手を焼いていた。彼らの過去の行状が関係者の心に蓄積された結果、さしたる証拠もないまま、本件の犯人は彼であるという噂がまかり通った。彼に容疑がかかったのは自業自得であり、同情の余地はない。このことは弁護人自身が弁護側尋問での

「被告人はハメられました。ハメるチャンスはだれにでもありました。被告人によって傷つけられ、恨む人間だったら、誰でも告発状を書くことはできました。『誰が告発状を書いたか』というのは表面的な問題に過ぎない。(だから)差出人を特定する必要はない。誰であってもおかしくないんですから」

という発言からも、それは明らかである。 しかし彼がこういう性格になったのは、その生育環境にも原因がある。彼は父親から溺愛されていたことは事実だ。だがそれは愛情ではなく「お金」という形で。そして彼は、父親から再三にわたり虐待を受けていた描写が見られる。子どもに対する過度な虐待は、子どもの心を傷つけるというが、おそらくこの生徒も、家庭内暴力の犠牲者だったのではないか。自宅では父親の暴力におびえ、彼のいうことには絶対服従。そのストレスが、学校内での暴力に向かっていたのではないか。 そして「空気を読む」ということ。本件では確かに、被告人が殺人を起こしたという証拠はなかった。だが彼の日頃の行動から、いつの間にか彼が犯人であるという「空気」が作られ、それに反対する意見は全くといっていいほど上がらなかった。美術教員は学校内に流れる空気を、17世紀フランドル(現オランダ)の画家ブリューゲルの「絞首台のカササギ」という作品に例えていた。この絵は青空の下街を見下ろす小高い丘で、ピクニックを楽しむ人々の情景を描いたものだが、その丘の上に絞首台があるという、不吉で謎めいた作品である。この絵が描かれたのは、宗教改革の真っ最中で周波を問わず教会の異端尋問や魔女狩りが烈しかった時代。この絵に出てくる「カササギ」は、ヨーロッパでは「嘘つき」「密告者」になぞらえられることがある。教員は犠牲者が、学校生活になじめない人間だろうと推測しているが、おそらく他の生徒も「彼は犯人ではない」といったら、他の生徒から仲間はずれにされるだけでなく、次のいじめのターゲットにされるのではないかと思ったのだろう。実際「犯人は彼ではない」という生徒がいなかったばかりに、事件後の校内では思わぬトラブルが起こったのだから。 「現実の中学生が、これだけ立派な考えと行動力を持っているわけがない」 「こいつら、本当に中学生か?」 書評サイトにこんな感想を書いている人は、今人気のアニメの作品に出てくる登場人物のほとんどは、年齢が中・高生の設定になっていることに違和感を覚えないのだろうか。はっきり言って、このお話に出てくる大人達は、生徒たちの活動を応援するどころか、逆に自分の保身のために、生徒たちの活動を邪魔しようとした。その代表例が「学級内裁判」のきっかけを作ったテレビ局の人間である。しかもこの男はことの顛末を本にしようと企み、前校長から呆れられた。そういえば彼は、証人として証言する時も、自説を延々と語るだけだったっけ。テレビ局の記者全員がそうだとは言わないが、その自意識過剰な発言は怒りすら湧いてくる。中学生がこれだけの行動力を示したのは、大人達がだらしがなかったから、だといえるだろう。 20年後「学級内裁判」に関わった生徒が、教師として母校にやってくる。彼は「僕たち、友だちになりました」といっているから、このときのメンバーとは未だにつきあいがあるのだろう。ヒロインの20年後は、下巻に収録されている「負の方程式」に収録されているので、そちらをご参照願いたい。個人的には「不良三人組」がその後どんな人生を辿ったのか、被告人の家族がどうなったのかが気になる。