Révision Du Livre

平和を愛する男がチョイスするブックガイド

「建築家、走る」

世界的建築家の、建築界に対する警告の書。 さて関係者は、彼の諫言をどう受け止める?

毎日忙しく世界中をかけずり回る、世界的建築家・隈研吾のインタビュー集である。この本を読むと、現代建築は「建築」だけの知識だけではなく、歴史・社会・政治・経済などの問題が複雑に絡み合い、これらの視点や知識なしに理解できないのだ、ということがわかるはずである。 この本を読んで最初に感じたことは、ヨーロッパとアメリカでは、庶民の住宅に対する感覚が180度異なっているということである。「住宅」は保守管理に手間がかかるから「借りるもの」であり、家を建てるのは王侯貴族という認識を持っているヨーロッパとは対照的に、アメリカは都市郊外の緑を切り開いて住宅地を開発し、庶民が住宅を持てるようにした。郊外の持ち家を手に入れた保守的な核家族が、緑の芝生の上でハッピーに暮らす」というコンセプトが確立され、それを実現する手段として住宅ローンというものが発明された。 第二次世界大戦後の日本はこのシステムに洗脳され「持ち家」システムを目指してしゃかりきに働く(働かされる)ことになる。「マイホームを持つ」ことを目標に日本経済は復興を遂げたが、その代償としてサラリーマンは一生を住宅ローンに縛られ、その妻は自宅に縛られる専業主婦になった。さらにバブル崩壊後は「二世代住宅ローン」なるものも登場したが、これも数十年後には廃れてしまうだろう。なぜならこのシステムは、土地も建物も永遠に価値が落ちない「土地本位制」が存在していることを前提としているからだ。しかし昨今の少子化傾向で空き家も増え、それに伴って土地の資産価値も下がっていくのは目に見えている。そうなると「住宅ローン」は無用の長物であり、田園調布、芦屋といったブランドに自宅を持ちたいと思う人以外、このシステムを使う人はいなくなるのではないか。現在豪邸を持っている家族も相続税が払えず、やむなく自宅を「物納」という形で税金を納めることになるかも知れないのだ(その代表例が、目白に大邸宅を構えていた田中角栄の子孫である)。時を同じくして、日本の建築界では「コンクリート最強論」がもてはやされ 「コンクリートは無限に永遠の強度を持つ」 「自由自在に造形できる」 というイメージが広まった。だがコンクリートは諸々の問題を抱えている上、ごまかそうと思えばいくらでもごまかせる素材であると彼は警告する。現代日本ではコンクリート製のマンションがもてはやされている。彼は 「(日本の建築会社は)マンションをうる技術だけが洗練されているが、イメージだけでは命は守れない」 という皮肉を吐くのは、地名だけで中身もよく知らないのに、カネだけは気前よくポンと弾む日本の消費者が多いからだろう。 その反対が木造建築で、これは丁寧にメンテナンスをすると、コンクリートよりも遙かに強い耐久性を得ることができる。いわれてみれば、日本には築何100年という古い木造建築が沢山あるが、これは関係者による丁寧なメンテナンスの賜だろう。だがこれらのことを、なぜか日本のメディアは触れようとしない。 とことん自然を無視した20世紀建築は、確かにトラブルや制約をなくして見せたが、その代償として建築現場を構成するものをすべて失ったと隈は語る。関東大震災に見舞われた日本建築界は、それがきっかけで方向性を見失い、それまでの木造建築を捨て鉄とコンクリート路線に走った。だが「3.11」で隈氏は 「鉄もコンクリート護岸も命を守れなかった。関東大震災前の日本の建築は「死」と共存していたのに、鉄とコンクリートは、その概念を忘れられてしまう。それは、自然を怖れなくなるなることと同じであることと同じだ」 と嘆く。 現在の日本における建築現場が「サラリーマン化」があちこちですすんでいるということに、隈氏は危機感を抱いている。昔の現場は現場監督が圧倒的権限を持っていたが、最近は「セキュリティ管理」の名の下、彼らの権限をすべて奪ってしまった。なぜならいまのゼネコンは「リスクを負いたくない、責任をとりたくない」という人間の集まりになってしまったから。たとえば、建物の段がわずか2㎜ずれただけで発注者からクレームをつけられたとする。相手の主張がムチャクチャだということがあきらかでも、自社の商品が「欠陥商品」だといわれたくない会社は、その言い分を通してしまうのだ。業界の保守化は、建築家にも影響を及ぼす。施主と建築家は表裏一体の関係であり、クレームが起きた時にどうするかが建築家の腕の見せ所なのだが、肝心の建築家もサラリーマン化し、デザインがどんどん保守化している。 現場が保守化しているのだから、学生はなおさらである。彼が建築を教えている大学では、受講生が提出した課題に文句を言うと「もういいです」と返答され、論争にも興味を示さないという。若手建築家も、建築という仕事は現実のドロドロのすべてが関わることを全部切り捨て、とんがった作品を一つ作り、世界で売れるようになりたいということしか考えていない。 「世界一」といわれる日本の建築技術も、彼にいわせれば「「ガラパゴス化の中の世界一の伝統工芸」に過ぎないという。いま世界中には多額の建築マネーが渦巻いているのに、日本の会社は海外に出て行きたがらず、中国や東南アジア市場でも後手を踏んでいる有様である。これに対して韓国は、どんどん世界市場に進出している。彼らは吸収力も学習能力も高く、民族間で助け合う意識が高い。かつての日本の長所が、どんどん失われてゆくことに、隈は歯がゆさを覚えるのだろう。 日本国内産業の「ガラパゴス化」が叫ばれて久しい昨今だが、これらを一言で纏めていえば、関係者が自己中心的になり、他者からの指摘に傷つきたくないという傾向が強くなっているからではないか。自分たちの論理を優先し、第三者からどう見られているかなんて気にもとめない。なあなあで不都合なことについてはしらんふり、あるいはとことん隠し通す。こんな人たちが業界の中心にいるのだから、組織だっておかしくなるよね。彼らが、日本が誇っていた美点をぶち壊している。その果てにたどり着くのは、どんな社会なのだろう?想像しただけでぞっとする。