読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Révision Du Livre

平和を愛する男がチョイスするブックガイド

「2016年4月の読書リスト」

今年も1/3が経過した。(←「昨年と同じ書き出しじゃねーか!」というツッコミはヤボというものです。ここの管理人さん、それほど頭はよくないので) だが昨年同様希望の光が見えないどころか、日本は本当に破滅するのでは?という恐怖が日ごとに増してくる。 14日に熊本を中心に発生した地震は、今日(2016年4月30日)現在1,000回以上も余震が起きている。 厄介なことに、今回の余震はおさまる気配がない。気象庁も「想定外の事態」だと茫然自失、対策のとりようがないと匙を投げている。 相次ぐ余震のために、車の中で一夜を過ごすという生活を送る住民も多い。余震による自宅崩壊、それに起因する圧死を避けるためである。 車の中で一夜を過ごす危険性は、誰もがみなわかっていることである。実際エコノミークラス症候群で、複数の被災者が命を落としている。 従来の耐震基準も、今回は役に立たない可能性が大きい。ひっきりなしに起こる地震のために、建物にかかる負荷が蓄積し、ちょっとした地震で建物が崩壊する可能性が高まっているからだ。それなのに、安倍政権の動きは思い。「3.11」の時ですら、地震発生翌日に激甚災害指定されたのに対し、安倍政権が熊本地震激甚災害に指定したのは先月25日。ここまで遅れたのは、その前日に衆院選挙補選が行われ、それを受けて「私が決断した」という形をとりたかったからとも、熊本県知事との関係が悪かったからだといわれているが、さて真相はいかに?

さてさて、先月読んだ本の紹介。 興味の方向が、社会科学から自然科学にシフトしているのは気のせいではなく、あえてそうしているのです。

 

数学する身体
数学する身体 森田真生 読了日:04月01日 評価5
 

数学する身体

月一度の「東京遠征」(本当は毎週のように足を運びたいのだが、先立つものが…(><)○倍のバカヤロー!!)の際、ふと立ち寄った本屋で見かけた数学本。パラパラめくってみると、およそ数学者とは思えない柔らかな思考と文体に夢中になり、立ち読みから5分足らずで購入を即決。文体が柔らかいのも当然、かれはもともと文系学部を志望していたが、尊敬できる数学の師匠に出会ったらしく、大学は数学科で幾何学を専攻していたという経歴の持ち主である。彼の文章を読むと「数学も文化である」ということを実感する。この本には、小難しい「数式」という概念が全く出てこない。それどころか折に触れ「数学の歴史」という概念が出てくるため、理系及び数学アレルギーを持っている読者でも、すんなりと理解できること請け合いである。日本古来の数学を「和算」、日本の学校教育で展開されている算数・数学を「近代(西洋)数学」と定義する著者の思考が、今後どのような展開を遂げるのか興味深い。

薄妃の恋ー僕僕先生

中国の古典文化の深い愛情を持つ作家・仁木英之が生みだした大ヒットシリーズの第二作。大人になっても働きも学びもせず、のんべんだらりとニートのような生活を送っている青年・王弁が、少女の姿をした仙人・僕僕と修業の旅から戻ってはや5年。薬師(くすし)として日々を送っていた王弁は、再び目の前に現れた僕僕と一緒に、中国国内を旅して回ることになる。相変わらずしゃっきっとしない王弁に呆れながらも、毒舌を交えながらも師として面倒を見る僕僕。二人の関係は「師弟」から「恋人」の関係に発展していきそうな予感。だが、師匠の本当の姿を知っている弟子と、自分の正体をどう思っているか気になる師匠は、最後の一線をなかなか越えることができない。この時点では「薄い」と表現されている彼女の胸が、年頃になったら豊満になるのか気になるところ。仙人だから、その気になれば「妙齢の美女」に化けるのはたやすいはずなのに、そうしないのはなぜ?個人的には老人というのは「仙人の擬態の一種」であり、実は絶世の美女である、という展開になることを希望しているのだが。

批評理論入門ー「フランケンシュタイン」解剖講義ー

19世紀イギリスの作家メアリー・シェリー(1797年~1851年)が、1817年に発表した「フランケンシュタイン」を、小説技法と批評理論の角度から読み解こうという狙いを持って書かれた文藝理論の解説書。本著は2004年度に京都大学人間総合学部で行われた講義録をまとめたものである。そのためここで展開されている文体は硬い上に内容も高度なので「新書版なので内容は平易だろう」と思ったら後悔するかも知れない。本書の着目点は、後半に登場する批評理論。この本で紹介される批評理論は13種類(小項目を含めると24種類)だが、理論が異なれば、そこから受ける印象はこうも違うのだろうかとうなってしまう。言い換えれば、この作品は多種多様な読み解き方ができる作品、ということがいえるのだ。欲を言えば、もう少し文体を平易にしてくれればと思う。

戦争の物理学ー弓矢から水爆まで兵器はいかに生み出されたか

「兵器」をキーワードに、科学技術の発展が兵器の進歩に貢献したかを探る本。本書にはレオナルド・ダ・ヴィンチ、ガレリオ・ガリレイニュートンラボアジェらの発見、ジェームズ・ワットらの技術革新は、結果的に兵器の発展・発達・破壊力増大につながってしまう。そのことについて、彼らは天国からどんな思いで見つめていたのだろう。もちろんすべての科学者が、自分の発見した現象が兵器に応用されることを快く思っていたわけではない。ニュートンは軍事面に無関心という態度を貫いたが、ダ・ヴィンチガリレイは、自らの発見や考案した技術が、軍事面に応用されることに対して不快感を持っていた。にもかかわらず、科学技術における新技術を兵器面に応用しようという動きは、第一次世界大戦が勃発してから顕著になっていく。著者はこの本の最後に記した一文 「21世紀やこの先の未来に強く望むのは、戦争の犠牲者をこれ以上増やすのではなく、物理学の進歩が、犠牲者を出さない兵器の開発を促すことだ」 については、大いに失望の念を感じざるを得ない。かつて我が国にも「環境に優しい兵器の開発」などというすっとぼけたことを行った国会議員がいたが、この文言はその発言と同レベルの妄言である。「物理学の最新理論が、兵器の開発に使われることは絶対に許さない」ということをなぜいえないのか?

進撃の巨人(19)

エレン奪回作戦以降、本作は登場人物の内面及び政治的駆け引きに関する描写に重点を置いていたが、今巻では久々に戦闘シーンが登場。そして長らく明かされていなかったマルコの死の真相は、まさに涙なくして語れないエピソード。彼は巨人と闘い、力及ばず敗れて死んだのではない。同期に裏切られ、深く傷ついて死んでいったのだ。そしてついに一連の事件の黒幕が登場したことで、ストーリーは今までの「人間vs巨人」から、権力闘争を伺わせるものへと変わっていく。ライナーらを統率する「獣の巨人」ことジーク兵士長の正体とその狙いは何か?アルミンがベルトルトとの対話で口にした「悪魔の末裔」とは?この作品は単なるバトルものではない。今までのように「悪」対「正義」という視点に拘ると、作者の言いたいことを誤解するかも知れない。