Révision Du Livre

平和を愛する男がチョイスするブックガイド

河北新報のいちばん長い日

東北を代表するブロック紙宮城県河北新報が「3.11」以来、東日本大震災をどんなスタンスで報道したか、社内ではどんなことがあったのかを記録し、同時に「メディアと何か?」「地方紙のあり方とはなんぞや?」ということを真摯に問う一冊である。 普通だったら、自社に都合の悪いところは徹底的に隠し 「震災時、我々はこれだけいいことをして来ました」 と自画自賛するところを、この会社は自社の混乱ぶりと取材・新聞制作・備品調達のために苦闘し、想像を絶する光景を目の当たりにしながら、それでも何をどこまで伝えればいいのか煩悶する記者たちの苦悩と葛藤を、あますところなく明かしている。 1面のトップをどうするか頭を抱えていたデスクにとって、今回の大震災は普通だったら「奇貨」と捉えるだろう。震災や戦争など、メディアにとっては「他人の不幸は美味しいネタ」だからである(と見られてもしょうがないような報道が目につくのは気のせいか?)。しかし、それが自分の住んでいる場所で起こったら…? デスクは'78年に発生した宮城沖地震を経験していたとはいえ、その時よりも体感震度が大きかったことに恐れを感じたという。そして、揺れが収まった直後のフロアの様子を見て絶句する。サーバーは倒れ、本社付近のインフラは寸断されるという、新聞社にとっては絶体絶命の事態に陥る。サーバーが復旧するまでは新潟日報社が紙面制作面で協力し、必要最低限の食糧や物資も、加盟している地方新聞社のネットワークが支援してくれた。 とはいえ、本社周辺のインフラが破壊されたために社内食堂が使えず、社内で急遽「おにぎり班」が結成されたが、作られるおにぎりは日を追うに連れて小さくならざるを得ず、それが原因で社内は一触触発の状況に追い込まれる。まさに「食い物の怨みは恐ろしい」を地で行く展開になりかけたが、社上層部の説得で、最悪の事態は避けられた。 取材したくても、今度は足がない。なにしろ、配達用のガソリンを調達するだけでも四苦八苦。取材したい→ガソリンが無い→何とかかき集めて調達→取材→新聞を発行しても、今度は配達用のトラックに使うガソリンが無いありさま。新聞に欠かせない紙も、製紙工場の施設が損害を受けた影響で、震災発生以降しばらくは減ページでの発行を余儀なくされた。取材班が使う衛星携帯電話がシステム部の部員に勝手に持ちだされ、外部てつくったデーターは下版(作成した記事のデーターを印刷機に入力する工程)直前、ロゴの字体の間違いが発見される。紙の手配がついたと思ったら、今度は紙面を埋める記事がなく、レイアウト(記事を紙面に配置すること)を担当する整理部記者は、作成された記事をどうする配置したらいいのか四苦八苦する。通信状態も悪いため、記事は現場で手書きで作成し、帰社してからパソコンで改めて記事を作成する。 それでも彼らが新聞を届けようと思ったのは、大震災で停電してテレビもラジオも使えない状態の中、避難所に逃れた人たちにとって、情報を得る手段は新聞だけだったからである。なんとかして被災地で恐れおののいている人たちに情報を届けたい、その思いで関係者は新聞を発行し、配達し続けた。 そして、現場に出た記者たちは、現場の未曾有の惨状に言葉を失った。ある記者は、子供の遺体を抱いた男性に罵られた。協定を結んでいるブロック紙のヘリに乗った写真部記者は、たまたま通りかかった建物の屋上に「SOS」のサインを見ながら、 「ごめん、今はこれしかできないんだ……」 とつぶやき、おそらく心のなかで号泣しながらカメラのシャッターを切った。 そして「3.11」を語り伝える上で、どうしても避けて通れないのが原発報道である。福島第一原発が爆発したのは、震災の翌日である3月12日15時36分。「津波報道を優先すべきか、それとも原発報道を優先すべきか?」で社内は揺れた。爆発と同時に本社から福島総局に退避命令のメールが発信されたが、上司の命令にしたがって、自身の安全のために避難するのか、それとも「記者魂」を発揮して支局に残るべきなのか、記者たちはその葛藤にその都度苛まされた。新潟出身の記者は、さんざん逡巡したあげく福島に戻る決断を下す。大学時代に原子力工学を専攻した福島総局長も、悩み苦しんだ末に、現地で被災者に寄り添うことにした。 だが、記者全員が使命と身の安全の間で、気持ちの整理をつけられたわけではない。この時期、一人の若い女性記者が日記をつけていた。彼女自身、一度は避難を決断するが、やはり地元に寄り添いたいと、結局福島に戻ってくる。その当時の日記を読むと、揺れ動く心理状態が生々しい筆致で描かれている。現地に残ったのだから、おそらくかなり被曝している可能性はある。結婚願望も、母になりたいという願望もあったに違いない。迫りつつある恐怖と闘いつつ、それでも現地の役に立ちたいと願った彼女の「ジャーナリスト魂」には敬意を表したい。だが業務命令とはいえ、一瞬でも地元を離れたことは、女性記者にとっては負い目となって後々までのしかかる。彼女は自分の日記にこう記している。

「今回福島を離れた私の姿は、自分がこれまで追い求めた理想の記者像とあまりにかけ離れ、その落差に言いようのない絶望感を覚えました。自分の中の弱さ、報道の使命、会社の立場……それらいろいろな因子の折り合いをつけて前に進むのが記者なのかもしれません。 でも、一度福島を去った私にはそう割り切ることができなかった。震災後どう生きていけばいいのか、記者の立場を離れた一人の人間として考えようと思いました」(第6章「福島原発のトラウマ p192より)

こう書いた彼女は、震災後から5ヶ月後ペンを置いた。彼女が現在どんな生活を送っているのか、この本では触れられていない。ただ言えることは、今回の大震災は、この若い女性に消えることのない、精神的な傷を与えたということだ。

今回の大震災以降、被災者や反原発派を中心に 「メディアは本当のことを言わない」 「大本営発表ばかりで、『専門家』の権威に頼った取材を繰り返し、自分で足を運ばない」 「東京電力を中心とする『原子力ムラ』への追及が甘い」 という非難の声が止むことはない。残念ながらこの本を読んでも、河北新報が「原子力ムラ」の責任を厳しく追求してきた、という姿勢を認めることはできない。いや、紙面では追求してきたのかもしれないが、それは本書のテーマとはそぐわないからと、あえて掲載しなかったのかもしれない。この本の出版元が「右派代表」ともくされる文藝春秋だからなおさらだろう。 だが、この新聞社が被災地に絶えず寄り添う姿勢を見せてきたのは事実である。 第8章では、記者の声を集中して取り上げているが、どの意見も生々しいものばかりである。「新聞社が必要とされていると感じた」と述べる記者もいる一方、心身とも疲労困憊し、不眠を訴える声も相次いだ。必要備品が不足し、通信が繋がらないため、取材活動に不備をきたしたという発言も記載されている。放射線という「見えない敵」のために、取材活動がしにくかったという発言もあった。 第9章では、読者からの体験談が掲載されているが、それらの記事を見る限り、一歩間違えれば生命はなかっただろうというケースばかりであり、いかに被災地が厳しい状況に置かれているかがわかる。だが問題は、これらの問題を取り上げているのが地方メディアであり、本拠地を東京に置く大メディアはほとんど触れていないということだ。これは情報格差というより、何か意図的なものがあるのではと勘ぐらざるをえない。

「3.11」以降、東北に拠点を置く新聞社が何を考え、取材し、社内で何が起きたのか? 上記については、この本はそれなりに知的好奇心を満たしてくれる。 だが東日本大震災で追求されるべきことは、政府の復興政策の甘さと縦割り行政の弊害、そして原発事故の責任なのだが、この本ではそれらのことは殆ど触れられていないのは残念だ。 河北新報の立場からすれば 「我々は『地方ブロック紙』である以上、政府や行政の責任よりも、むしろ住民が欲する情報に注力すべきだ」 という立場はわからないでもない。だが「ジャーナリズム」である以上、行政や企業の責任を問うことは、避けて通れないのではないか?