Révision Du Livre

平和を愛する男がチョイスするブックガイド

「2015年10月の読書リスト」

気がつけば、今年もかレンダーがあと2枚という時期になった。本当にあっという間である。 「あっという間」といえば、この国の「戦前化」も急スピードで進んでいる。先日も某書店チェーンが企画したフェアに「ネトウヨの抗議が殺到し、フェアが中止になる事態に追い込まれた。新聞を見ていたら、戦前の様子を知る人が 言論統制は『上から』ではなく、国民が上の意向を忖度することからはじまる」 という趣旨のコメントを出していたが、これは本当だと思う。戦後に戦線拡大の責任を問われた旧日本陸軍幹部が 「君たちがさんざんあおったからではないか」 と答えたそうだが、これは本当だと思う。今の風潮に、メディアが手を貸しているのは間違いない。

それでは、先月読んだ本のご紹介。 先月は結構読んだな。

集団的自衛権はなぜ違憲なのか (犀の教室)集団的自衛権はなぜ違憲なのか (犀の教室) 読了日:10月3日 著者:木村草太,國分功一郎
早大を出た僕が入った3つの企業は、すべてブラックでした早大を出た僕が入った3つの企業は、すべてブラックでした 読了日:10月4日 著者:小林拓矢
モア・リポート―新しいセクシュアリティを求めて (集英社文庫)モア・リポート―新しいセクシュアリティを求めて (集英社文庫) 読了日:10月13日 著者:
美しい国へ (文春新書)美しい国へ (文春新書) 読了日:10月20日 著者:安倍晋三
ちはやふる(29) (BE LOVE KC)ちはやふる(29) (BE LOVE KC) 読了日:10月21日 著者:末次由紀
楽園のカンヴァス (新潮文庫)楽園のカンヴァス (新潮文庫) 読了日:10月27日 著者:原田マハ

集団自衛権はなぜ違憲なのか?

報道ステーション」コメンテーター(月曜日担当)でおなじみの、新進気鋭の憲法学者による最新刊である。筆者はこの本では、安倍内閣が推し進める「安保法案」の危険性について、わかりやすい言葉で解説している。「本を燃やそうとしている人間は、いずれ自国の憲法を燃やそうとするだろう」という言葉にはゾッとさせられるが、この内閣がこのまま安保法制を強引に推し進めようとすると、早晩国内外で立ちゆかなくなるのは、火を見るより明らかなことである。「法的解釈の安定性」についての意見は必読。この概念を否定するということは、条約の解釈すら自分たちの都合のいいように解釈する可能性もある。それは諸外国との外交関係にも重大な齟齬を来す可能性にもつながるということを、筆者は指摘する。だがほぼ全員が「知性を持つ者」に反感を抱くこの政権は、自分たちの都合の悪いところにはとことん頬被りを決め込むだろう。「この道はいつかきた道」にならないことを祈るしかない。

早大を出た僕が入った3つの企業は、すべてブラックでした

自らのことを「氷河期世代を代表するフリーライター」と自称するライターの、初めての単著である。 ただし、これを今問題の「ブラック企業で働き、身も心もボロボロになって退職した人間が書いたルポルタージュ」と思って読んではいけない。「自分は苦労して早稲田を出たのにまともなところに就職できず、生活のためにやむを得ずこんなちんけなところに就職した。だがそこは自分が思っていた会社ではなく、周りがバカだから自分の考えている仕事が何一つできない。だから悪いのは自分ではない」という恨み辛みを、延々と書き連ねているだけの駄本である。「ブラック企業」と思っているのは本人だけ、むしろ私は、彼みたいな人間を「一人前の社会人」に育成しようと奮闘していた、上司や先輩の苦労はいかばかりかと思ってしまうのである。

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「早大を出た僕が入った3つの企業は、すべてブラックでした」

彼は「氷河期時代を代表するフリーライター」を自称するが、彼みたいな人間が「氷河期世代」の代表だと思われてはたまらない。 これは明くまでも、筆者自身の「恨み辛み妬み僻み憎しみ」をまとめたものであると思った方がよい。

 

「氷河期時代を代表するライター」を自称するジャーナリスト・小林拓矢の初の単著である。 小林は1979年山梨県生まれ。山梨大学教育人間科学部附属中学校駿台甲府高校早稲田大学という、世間一般がうらやむようなエリートコースの経歴の持ち主である。大学4年と5年(つまり、就職活動のために1年留年した)の時に朝日新聞を受験したが不合格になり、就職先が未定のまま「社会」という名の荒野に放り出された。 大学卒業後、都内のハローワーク主催の山梨県出身者を対象にした企業説明会に参加し、県内のIT企業の社長に見込まれ「社会人デビュー」を果たす。だが入社したものの、来る日も来る日もプログラミングの課題をこなす毎日。本人なりに頑張っていたのだろうが、会社上層部は彼をこの職種に不向きと判断したのだろう。研修期間中に「解雇」を言い渡される。 次に入ったのは、為替証拠金取引の会社だった。担当業務は「顧客に対する電話営業」だったが、実際は電話帳で資産を持っていそうな顧客を探し出し、電話をかけて取引をするようお願いするという仕事だった。就業規定では朝9時始業のはずが、実際は朝7時に出勤し、当日のノルマが達成できなければ深夜まで会社にるのが当たり前という社風だった。当然こういう会社では、残業代は一円も出ない。社内の雰囲気になじめない(なじめる方がおかしいのだが)彼は社内でいじめの対象になり、心身ともボロボロの状態になっていく。「新聞記者になる」という夢に拘っていた彼は、忙しい業務の合間を塗って試験に臨むが、彼を受け入れる新聞社は現れないまま、退職してフリーライターになる決心をする。しかし仕事の依頼は少なく、生活に窮した彼は山梨に帰郷し、仕事の時だけ上京するという生活を送る。 3社目の会社で、彼は念願の「記者」という仕事にありつく。だがこの会社でも彼は「精神的な虐待」を受け続けたあげく、鬱病を発症してしまう。結局彼は1ヶ月ほどでこの会社も退職し、再び山梨に帰郷する。帰京後彼は、この連載のもとになる記事をブログに綴る。細いコネを頼りにこの記事を企画書にまとめ、あちこちの出版社に売り込む。しかし実績不十分のフリーライターの企画を受け入れる奇特な出版社はいない。その後フリーのライターとして実績を積み、名前を知られるようになった彼は「就職氷河期に就職できなかった学生が、今どんな生活を送っているか」をテーマにした連載記事をブログで発表する。この本は、彼が運営するブログ「他山の石書評雑記」に30回にわたって連載した「就活失敗~結局、正社員になれなかった」というタイトルの記事を書籍化したものである。 しかしこの本は、著者が「味方・同志」と思っている「氷河期世代に学生だった」世代から猛烈な反発をあびる。彼が開設していたTwitterFacebook、そしてこの記事を掲載していたブログには、彼に反対する抗議の意見が殺到し炎上する。Facebookのフィードは「友人限定」に変更し、Twitterは公開→非公開を繰り返したあげく現在では非公開になり、ブログは事実上の閉鎖に追い込まれた。それは本書で 「自分は早稲田を出たのに一流企業に就職できず、これだけ酷い目に遭ってきた。だから会社が悪い、俺は悪くない」 と、事ある毎に強弁を繰り返しているからだ。 なるほど、森永卓郎獨協大学教授が日刊ゲンダイの書評で指摘しているとおり、確かに2つめの会社はブラック企業である。この会社は、筆者が退職してまもなく違法取引で警察に摘発され、それが原因で倒産する。この会社が行っていた「電話営業」というのは、詐欺すれすれ(というより、この記事を読む限りでは「詐欺そのもの」)の営業だった。下手をすれば、彼自身も「犯罪関係者」として指弾される可能性があったのである。摘発前に退社を決断した彼は、運がよかったというより、詐欺に近い営業活動に、彼の良心が悲鳴を上げたというのが正解だろう。 これに対して1社目のIT企業と、3社目の業界紙を「ブラック企業」と認定するには疑問がある。日本の会社の99%は「中小企業」だが、ほとんどの中小企業は日々目の前の利益確保に追われ、人材育成・社内の設備投資にエネルギーを割くことができる会社はほとんどない。彼を採用した社長は 「早稲田を出たのだから、当社の業務を理解できる能力はあるに違いない」 と考え即戦力となれる人材と判断したから、筆者の採用を決めたのだろう。だが実際にはプログラミングの問題を解かせてみると、彼はその内容を理解するのに四苦八苦。何しろ、必要なソフトをPCにインストールするのに難渋するのである。これではこの業務をさせるのは難しいと、人事担当者に判断されるのもムリはない。人事は 「まだ若いのだし、傷が浅いうちに引導を渡した方が将来のためだ」 と思って彼に解雇通告を下した。会社側から明らかに「能力不足」という判断をしたのに、彼は逆恨みしたあげく、ハローワーク主催の別の就職セミナーで再会した人事担当者に詰め寄るという騒動を起こしている。こんなことをしたら、ハローワーク担当者から目をつけられるかも知れないと思わなかったのだろうか? 3社目の業界紙の件に至っては、彼の行動はとても同情できない。自分で実績があると思っていても、その会社に入った以上は「新人」として、その会社のやり方にあわせるべきだと思うのだが、彼にはそれができない。上司・先輩から指示を受ける→やり方が気に入らないと反発する→周囲から叱責される、の繰り返し。筆者は大学で社会学を専攻し、業界紙入社前は、フリーライターとして活動していたから、その知識が「組織人」として生きることの妨げになったことは否めない。上司・先輩をバカだと罵り、そのやり方は学問的には間違っていると彼は述べるが、上司や先輩・同僚から見たら、筆者みたいな人間は扱いにくい鬱陶しい存在だったに違いない。だからこそ会社は(著者が言うところの)ムチャクチャな仕事を彼に振った。こんな面倒くさいヤツの面倒は見たくない、ムチャクチャな仕事を振ったら退職するだろうと、会社側は思っていたのだろう。だが被害妄想に囚われていた彼には、会社や先輩に対する恨み辛みをいっそう募らせていく。 本書を読み進めていて腹が立った部分は、業界紙で彼がやらかした「得意先に対する電話応対」のトラブルについての記述である。先方が激怒して今後の取引を打ち切ると通告し、先輩や上司が、筆者に対して電話に出ることを禁止すると通告したのだから、彼はよほど先方に失礼な応対をしたとしか考えられない。なのに彼はこの会社をネットで検索し、この会社が自民党の大物政治家が経営に関与しており、この会社が社員にパワハラ行為を働いていたと逆ギレする始末である。自分のしでかしたことを棚に上げ、ひたすら「俺は正しい、俺を理解してくれない世の中や会社が悪い」といっても、誰も同情してくれないのは当然のこと。著者が会社内で孤立する事態になったのも、はっきり言って自業自得としかいいようがない。 さすがに本件では、ずっと彼を応援してきた人間も違和感を覚えたのだろう。何しろこの記事では、彼が先方にどんな電話応対をしたのか、一切書かれていないからだ。ブログに記事が掲載されたとき、ブログ読者の一人がTwitterにて 「どんな電話応対をしたのですか?あなたにも非があったからではないですか?」 と質問してきたが、彼はその質問に対して誤読だと居丈高に反論し、自分は悪くないと強弁してきたのには驚いた。どうやら彼は自分の都合の悪いところは徹底的に隠し、ひたすら相手の日を責め立てる性格の持ち主のようだ。 これでは知人・友人でも、彼を理解し支援するのは難しいだろう。 この本を読んでいて、彼が「正社員になれなかった」のは、就活の方法にも問題があったのではないか、と思っている。朝日新聞に入るのは、並大抵のことではないことはわかっているはずだから、他の新聞や雑誌社・出版社に入社し、そこで経験を積んでから改めて朝日新聞を目指した方がよかったのではないか。彼が言うところの「ジャーナリズム」にこだわるのならば、テレビやラジオの世界も志望対象に入れた方がよかったのかも知れないし、「書くこと」が最大の目的だったら、業界紙広告業界でもよかったはずである。いずれにせよ、彼が正社員に慣れなかったのは視野の狭さが災いしたことは確かである。 彼が就職できなかったのは不運だと思う。だがそうなったのは、彼の性格と考え方にも原因があると断言できる。本書から滲み出る被害妄想と視野狭窄のおかげで、ネット上では「この本自体が炎上商法」と言われる始末であるが、とりあえず知名度アップには成功した。だがその性格と考え方を改めようという姿勢を見せない限り、仕事の幅は広がらないだろう。

2015年9月の読書リスト

国民の猛烈な抵抗を押し切り、とうとう希代の悪法「安保法案」は成立してしまった。 与党はこの法案の成立のために、これまで丁寧に積み重ねてきた、国会内での管領や必要事項を無視するという暴挙。SEALDsを中止とした反対派も成立間際まで反対の声を上げつつけた。しかし「8.30」デモに驚愕した官邸サイドは、警察当局に圧力をかけて、デモ隊が国会前の道路を占領しないように警察車両を配備した。当然のことながら、当局の対応に反対の怒りのボルテージは高まる一方である。 それにしても、野党のだらしのないことよ。安保法案の採決に先だって行われた、内閣不信任案におけるフィリバスターは2時間以上に及んだが、所轄大臣の問責決議案は結局提出せず。参議院に至っては、巨大与党によってフィリバスターは阻止され、ならば牛歩戦術をとればいいのにそれもしない。山本太郎が一人律儀に牛歩を実行し、閣僚席及び自民党議員団の席に向かって、嫌みたらしく喪服姿でお焼香のパフォーマンスをやったのみ。彼は反対票を投じる際 「組織票のために政治をするのか!良心は痛まないのか!」 と叫んでも自民党議員団はこれを無視。野党議員の「憲法違反」という叫び声が空しく響く中、法案は成立してしまった。 先週末で国会が閉会したため、現在の政治報道は休戦モードが漂う。おそらく政権幹部は「人の噂はなんとやら」ではないが、しばらくしたら国民の怒りは静まると高をくくっているに違いない。国民の怒りが本当に収まったのかどうかは、11月に開催される予定の臨時国会が開会するときにわかるだろう。

それでは、先月読んだ本の紹介である。

 

愛国の作法 (朝日新書)愛国の作法 (朝日新書) 読了日:9月4日 著者:姜尚中
モア・リポート 女たちの生と性/新しいセクシュアリティを求めて (集英社文庫)モア・リポート 女たちの生と性/新しいセクシュアリティを求めて (集英社文庫) 読了日:9月10日 著者:
新装版 なんとなく、クリスタル (河出文庫)新装版 なんとなく、クリスタル (河出文庫) 読了日:9月14日 著者:田中康夫
映画時評2009-2011映画時評2009-2011 読了日:9月24日 著者:蓮實重彦

愛国の作法

この本が発行されたのは、足かけ5年にわたった小泉政権が退陣し安倍内閣(第一次)が発足した時代である。小泉元首相は2005年の終戦記念日靖国神社公式参拝し、安倍総理が「美しき国へ」という著書を発行するなど、世間は右傾化の雰囲気が漂っていた。本書はその雰囲気に抗うかのごとく出版されたものである。この本の一番の難点は、その難解な文章にある。問題点を指摘しようという意欲は買うが、表現がわかりにくくて何が言いたいのかわからないところがある。読みこなすには、政治思想史や哲学、日本近代史・現代史の知識がないと、理解するのは難しいだろう。

モア・リポートー女たちのあたらしい生と性

高級女性誌「MORE」編集部が、1980~1881年に行ったアンケートを基に発行された単行本の文庫化。単行本発行時のキャッチコピーは「今、女たちが自らの口で『性』を語りはじめた」というものだったが、その内容の生々しさは、当時の出版界に大きな衝撃を与えた。というのも、このアンケートを実施した「MORE」は「ファッション雑誌」で、そのような特集を載せるとは思われていなかったからである。 その内容は、今呼んでみても本当に生々しい。一読して感じることは、男性がいかに女性の身体のことを理解していないか、ということ。そして「SEX」というのは汚らわしいものではなく、男と女のコミュニケーションの一種として捉えて欲しいと思っている女性が、思っていたよりも多いということである。あれから30数年経ち、世間のSEXに対する認識はかなり変わったと思っている。そして、勇気を出してこのアンケートに協力してくれた女性たちに感謝したい。 なお、この本については別に記事を書いたので、詳しくはこちらを参照してください。

なんとなく、クリスタル

「軽薄な作家が、軽薄な学生のことを書いた小説。何でこんな小説が『芥川賞』の候補になったのか、訳がわからない」それがこの本を読み終えた第一印象だった。一流大学に通う、セレブな階層に所属する女子大生が、誰もがうらやむような生活を送る様子を描く小説。格差社会の現代で、こんな小説を発表する作家がいたら、周囲から総スカンを食らうことは確実である。ところが、作者のあとがきを読んだとたん、その印象は一変した。彼によれば、自分で読みたい青春小説を書きたかったのだという。今まで彼が読んできた「青春小説」は、現代の大学生の実態とはあまりにもかけ離れていた。そのことに違和感を覚えた彼は、それだったら自分で、今の大学生が何を考え、どう思っているのかをみんなに知ってもらいたかったのだ。そういう意味では、この作品は’80年代を代表する小説といえるかも知れない。

映画時評 2009-2011

東京大学第26代総長にして、映画評論関係者から「希代の映画アジテーター」といわれる映画・文芸評論家蓮實重彦氏。本著は文芸誌「群像」に掲載された映画評論約40本、映画に関するエッセイ、そして立教大学での教え子である映画監督・青山真治とのインタビューで構成されている。深い知性と鋭い視点、そして豊かな教養から生み出される独特の文体は、一見するとやさしそうに見えるために、他の人間からはまねしやすい。しかしこの本を通読してみるとわかるように、一文一文がやたらと長いその文体は理解するのは難しく、読み手に高い知性と深い教養、そして広範な視点を要求する。取り上げられる話題は、映画の裏話だけに止まらず高度な撮影技法まで幅広く、さらにその技法がどんな意味を持つのか、どんな背景があるのかを語る。この本にも書いているが、彼は一生かかっても観られないほどの映画DVDを持ち、さらにBSで放映された映画まで録画しているというから、ここまでくると「マニア」というより「中毒」と言っていいほどである。そこには、映画に対する彼の深い愛が垣間見える。この本を読んで、彼の専門である文藝評論も読んでみたくなった。そこでは、どんな思考が展開されているのか興味がある。

「モア・リポートー女性たちの生と性」

女性たちが社会に与えた、衝撃の告白。 その内容は、発光から30年以上経った今も十分生々しい。

 

雑誌で女性のヌードをはじめて目撃したのは、2歳の頃だろうか?だが母はそれらの写真を「神様が隠した」と言って、どこかに隠してしまった。おそらく母は女性のヌード写真を「汚らわしいもの」だと思っていたのだろう。性教育についても同じで、私は「性」に関する知識は、自分で身につけるしかなかった。 私が小学校時代(1970年代後半)、「婦人倶楽部(1920〜1988年、講談社発行)」「主婦と生活」(主婦と生活社発行、1946〜1993年)「主婦の友主婦の友社発行、1917〜2008年)」といったいわゆる「婦人雑誌」は、「オーガズム」「オンナに目覚めた夜」などといった刺激的なタイトルで、過激なSEX特集を毎月のように掲載していた。「主婦の友」に至っては「SEX特集」と銘打った別冊を毎月発行していたほどである。我が家にある「婦人倶楽部」には、主婦のオーガズム体験記が掲載された。彼女らが手紙で同誌編集部によせた告白記の内容は、40年近く経った今読んでも生々しく、男子が書いたポルノ小説のセックス描写よりも遙かに刺激的であり、小学生だった私には衝撃的だった。 1970~80年代は月刊婦人誌の他に、祥伝社が発行する「新鮮」、光文社が発行する「微笑」という隔週刊の女性週刊誌があった。一応「女性誌」と銘打っているので、掲載内容は芸能人に関する記事が中心である。だがこの両誌のウリは芸能関係ではなく「月刊婦人誌」以上に過激なSEX記事だったのではないか?両誌には毎号のようにSEX関連の記事が、ご丁寧に女性の裸の写真付きで掲載された。「主婦と生活」と発行元が同じである「週刊女性」に至っては、読者自身のヌードを披露するコーナーが存在した。彼女たちを撮影するのは、プロの写真家である。おそらく彼女たちは、自分が一番きれいな姿であるうちに、己の生まれたままの姿を遺したかったのだろう。 小中学生の頃、女子の同級生たちは自分の裸を見られるのを嫌がった。その一方で女性誌に、SEX記事に夢中になり、自分のヌードを掲載したがる「オトナの」女性たちの存在がいることは、子供心に不思議だと思っていた。勝手な憶測だが、これらの記事を読みながらせっせと「自家発電」に勤しんでいた男子中・高生も多かったに違いない。と同時にこれらの記事が、彼らの「性教育」の教科書という役目を果たしていた。そういえば‘1970年代~1980年代に放映されていたテレビドラマも、女優たちが平気でスクリーンやテレビカメラの前で、自分の生まれたままの姿を晒し、時には頭を揺らしながら嬌声を上げる場面が多かったと記憶している。 世間にはこれだけ「SEX関連記事」を掲載する女性誌が多いにもかかわらず、1983年にこの本が出版されたときの衝撃は大きかった。私が考えるに、理由は2つ。1つはこの本を編集した「MORE」という雑誌はファッションが中心の雑誌でであり、他の女性誌が力を入れている「SEX」についての距離を置いていたと思われていたこと、もう1つは「月刊婦人誌」が掲載していたSEX関係の記事が「自分が体験した快楽の記録」が中心なのに対し、この本では女性自身が自らの言葉で、SEXに対する欲求を赤裸々に語ったことである。 「MORE」が1980年・1981年に実施したアンケートに回答した女性は、13歳~60歳の5,770人(1980年は5,422人、実名回答は1,460人。1981年は348人)。編集部が用意した質問は全部で45問。読者に自らの具体的な性生活を事細かく尋ねる内容のため、読者から寄せられた回答の整理・分析に2年半を費やした。インターネットが普及した現代、同様の質問をネット上で募集したら、回答を寄せる読者がどのくらいになるのかは想像できないが、おそらく相当数の回答が寄せられるだろう。むろん日本国内だけでなく、海外に在住する日本人および日本語を理解する外国人も、この企画に積極的に参加すると思われる。もっともこの企画自体をもって、日本女性の性に関する意識を代表することはできない。「MORE」の読者層は20~30代の、それもある程度知的水準が高い女性である。だからこれらの数値は、あくまでも参考程度として受け止めるべきであるが、1980年代初頭における、女性の「SEX」「性」についての意見・思考をまとめた書物として、大いに評価されるべきだろうと思う。 このアンケートは、1983年「モア・リポート」という単行本にまとめられ、3年後に文庫化された。本書はその前半にあたり、 この本には、17歳~52歳(当時)の、様々な背景を持つ43人の回答が掲載されている。43人の中には「処女」という人もいれば、SEX体験が豊富な人もいる。ただ雑誌の読者層を反映してか、短大以上の学歴を持つ知的階層の高い人が多数派を占めている。高卒・中卒と思われる回答者は少数派だが、地頭は周囲が思っているほど低くないというのが、回答を読んだ私の印象である。 回答者全員に共通するのは 「男性はびっくりするほど女性の身体について無知である」 ということ。AVの影響で、自分だけ気持ちがよくなればさっさと終わり、私のことなんかまるで考えていないと訴える女性が多い現代だが、驚くべきことに、30年以上前のアンケートですら、そのように思っている女性が多かったとは。回答者の中には、親から「SEXとは、汚らわしいものである」という教えを受け、SEXについてろくな知識もないまま新婚初夜を迎えたという女性もいた。不幸にも夫もまた、SEXについて満足な知識を与えられないまま初夜を迎えたという。当然そこには「性の歓び」というのは存在しない。その女性はこのアンケートで、結婚後の性生活は不満足であると回答した。 愛撫もそこそこに女性の中に入り、一方的に動いて射精する男性。事が終わった後、女性の気持ちを考えず、さっさと寝てしまう男性。女性の意思とは関係なく、己の欲望のままにSEXを迫る男性。避妊に非協力的な男性。この本には、彼らに対する不平不満をぶちまける女性の声が多く紹介されている。当然のことながら、そのことを訴える女性の多くは、夫婦仲がうまくいっていないか、離婚を経験している。反対に、充実した性生活を送っている女性は、夫との関係がうまくいっている。驚くべきことに「夫との性生活は充実しています」と答えた女性の中に、夫とは別の男性と付き合っていると告白する女性も、複数回答を寄せていたこと。現在では、某タレントではないが「不倫は文化」になっているが、当時はそこまで世間も寛容ではなかったから、彼女たちはかなりぶっ飛んだ(「進んだ」とは、微妙な気がする)感覚を持っていたと思う。18世紀フランスの貴族社会では、不倫や浮気は当たり前だから、先の回答を寄せた女性は、ロココ時代の風習を現代でも実践していると思っているのかも知れない。また、回答を寄せた女性の中には「『SEXは汚らわしい』という感覚を持っている」という回答を寄せた女性の中には、親のSEXを目撃したことの悪影響があるらしい。私は幸か不幸か、自分の親がSEXをしている場面を見たことがないが。 既存女性雑誌が特集する「男の心を掴む手段としてのSEX」「男のご機嫌を取るSEX」「男に尽くすSEX」から「自身の快楽を追求するためのSEX」へ。実は女性も、積極的にSEXを愉しみたい。夫から丁寧に愛され、めくるめく歓喜の世界に浸りたい。愛する人(だけ)に、己のあられもない姿を欲望のままにさらけ出したい。だがそれを拒んでいたのは「結婚するまでは処女でなければならない」という処女至上主義や「妻は、たとえ自分がその気になっていなくても、夫にその気があればベッドの上でも夫に尽くさなければならない」という「貞淑な妻」を求める世間の目。彼女たちの願いは、女性が持つ欲望の壁をぶち破り、SEXは男女間の至高のコミュニケーションであるということを世間に理解させるということだった。この本は、女性のSEXについての主張を世間に知らせるための第一歩だったのかも知れない。 この本を読み終わって、本書に回答を寄せてくれた女性は、今どんな生活を送っているのだろうと想像してしまう。さすがに最初の回答から30年以上が過ぎ、当時40代・50代だった女性は、おそらく現在は鬼籍に入っているだろう。そして回答当時10代・20代だった女性は、今この本に掲載された自分の回答を観て、どんな思いを抱いているのだろうか聞いてみたい。30年前の自分と比べてみて、今の自分の「SEX」に対する意識はどう変化したのだろう?一人の男性として、大いに気になる。 若き日に勇気を出して答えた青春の記録として、私は彼女たちに敬意を表したい。

2015年8月の読書リスト

2015年8月30日は、日本の市民運の歴史に、新たな1ページを加えることになるだろう。 当日は時折小雨交じりになるという悪天候にもかかわらず、老若男女12万人が国会に集結した。もちろん「安保法案廃案!」を叫ぶために。雨が降っても10万人以上が集結したら、好天だったら30万人がやってきたはずである。そして延べ人数も、途方もない数値になっていただろう。 そこでは坂本龍一が、園子温が、そして実際の戦争を体験している森村誠一らが、口々にこの法案の不当性・違憲性を訴えた。 会場では4野党の党首が同じ壇上で手を繋いで並び団結をアピールした。彼らの怒りの前に、警察が敷いた規制体制は、あっという間に崩壊した。この様子を観察していたデモ主宰者や野党議員は、延べ人数の参加者は35万人と推計している。にもかかわらず、政権サイドは「デモ参加者は3万人」と言い張り、彼らに尻尾を振る大メディアも、このデモを矮小化しようと必死である。海外メディアの多くは、このデモを「日本の政治史に残る出来事」と報道する反面、これだけの人数が集まったにもかかわらず、きちんと事実を報道しようとしない日本のメディアの姿勢に違和感を感じたのではないか? 2003年、イラク戦争反対デモを叫ぶために集まった人たちは約5万人。それでも当時は近年最多といわれていたものだ。ブロードバンドの普及で大量にメールが行き交い、ネットのおかげで人々が簡単につながるようになったといわれていたが、当時はメーリングリストで交わされる情報が頼みだった。だが今はTwitterFacebookに加え、動画サイトによるネット中継が普及したことで、情報があっという間に広がる時代である。と同時に、伝えるべきことを伝えようとしないメディアに対する不信感も、時間の経過とともに募っている。 そこへ持っていて、昨日はもと最高裁判所長官経験者が、この法案は違憲であると明言した。それでも、自民党はこの法案成立に突っ走るんだろうか?

さて、先月読んだ本の紹介。期せずして、今月読んだマンガ以外の本は、作者が外国人である。

ジャズ喫茶論 戦後の日本文化を歩くジャズ喫茶論 戦後の日本文化を歩く 読了日:8月10日 著者:マイク・モラスキー
進撃の巨人(17) (講談社コミックス)進撃の巨人(17) (講談社コミックス) 読了日:8月13日 著者:諫山創
ちはやふる(28) (BE LOVE KC)ちはやふる(28) (BE LOVE KC) 読了日:8月21日 著者:末次由紀
101回目の夜―Just do it.No excuses!101回目の夜―Just do it.No excuses! 読了日:8月21日 著者:ダグラス・ブラウン
本を読む本 (講談社学術文庫)本を読む本 (講談社学術文庫) 読了日:8月28日 著者:J・モーティマー・アドラー,V・チャールズ・ドーレン
読書メーター

ジャズ喫茶論

戦後の日本文化を歩く日本における「ジャズ喫茶」の過去と現在を、社会学の視点から考察した一冊である。一番の特徴は、地方にある「ジャズ喫茶」を丹念に取材し、そこのマスターと、地方におけるジャズ文化の受容の様子を記載していることである。戦前の日本のジャズ喫茶にやってくる顧客の大部分は、当時はやっていたダンスホールからの顧客が大部分だったそうである。そのイメージが戦後まで残り、ジャズ喫茶にたむろしている高校生たちは「不良」というイメージで見られていた。学生運動が華やかし頃の1960~70年代は、若者からジャズは「反体制」の象徴として捉えられ、戦後~高度成長期のジャズ喫茶では、店内では「私語禁止」という暗黙のルールが存在していたことを知る人は、どのくらいいるのか知りたい。

進撃の巨人(17)

16巻後半からの怒濤の展開を経て、このお話もいよいよ先が見えてきた、と思っていたのだが… 自らの手で過去の因縁を断ち切ったヒストリア(クリスタ)は「人類に君臨する女王」として、困難に立ち向かう覚悟を固める。「調査兵団のお飾り」と揶揄されつつも、自分のやりたいことを自らの手で切り開いていくヒストリア。そこには自らを「いい子」だけと蔑んでいた姿はもうない。クリスタ、君は強くなったよ。彼女の成長は、ファンとして嬉しい限りである。 だがこの話は、まだまだ一波乱も二波乱もありそうな予感。何よりライナーらの謎が解明されていないし、エレンの実家の地下室の秘密も残っている。そして、最終ページに出てくるあの巨人の正体は…

101回目の夜ーJust do it. No excuses!

セックスレスの夫婦が増えているという話を聞いたジャーナリストがその話を妻にしたところ、彼女から「それじゃ反対に、100日連続でSEXしたらどうなるだろう?」と提案され、それを実行した記録を書籍化したもの。扱うテーマがテーマだけにポルノ小説と誤解される方も多いだろうが(実際にポルノ・イベントの様子も書かれているが)、世間一般で思われている「ポルノ小説」ではなく、作者家族がどんな生活を送っているのかもきちんと描写されている。そのため見方によっては「文学」ではなく「ルポルタージュ」であると解釈することも可能だろう。具体的な性愛描写はさらりと流されているだけなので、その部分を物足りないと思う人もいるかも。なお本書に付帯している帯には「映画化決定!」という文字が大々的に躍っているが、2015年現在、海外で映画化が進んだという話は聞かない。

ちはやふる(28)

一緒にかるた部を引っ張ってきた太一の退部という事実を受け入れられず、自身も休部してひたすら受験勉強に専念していた千早。おそらく彼女は、これを機にかるた部から抜けようと思っていたに違いない。しかし他の部員が一生懸命に活動している様子を目の当たりにした彼女は、やっぱり自分にはかるたしかないと思ったのだろう。東京都予選直前に電撃的に復帰を果たしたが、休部していたブランクは大きかった…。創設者不在の状況というハンディを克服したかに見えるかるた部メンバーだが、太一が抜けた穴はやっぱり大きかった…。メンバーは短期間でそれなりに成長しているが、それが「チーム」に還元されていないのがもどかしい。実は、千早は「かるたバカ」ではなく、ちゃんと勉強すればそれなりにいい成績がとれる生徒だということが判明する巻だったりする。

本を読む本

1940年に出版されて以来世界中で愛読されている書物で、読書論の分野では既に「古典的名著」と見なされているものである。著者が本作の中で繰り返しているのは「読書とは『著者との対話』である」ということ。なるほど、こんな考えがあることは想像できなかったな。著者にいわせれば、我々が普段やっていることは「初級読書」であり、著者のいいたいことを理解するためにはそれなりの技術がいるということなのだ。確かにこの本においても、著者のいいたいことをと完全に理解するためには、それなりの技術と広範な知識が要求される。海外の名画に「読書をする人」をテーマとする名作が数多くあるのも納得。それは読書の習慣が、ヨーロッパにおいて重要である事が認識されているからに他ならないからだ。 翻訳書故、読みづらさが多々ある事はどうしても否めない。それは外国書の著者の多くが「哲学」を思考べーすにしていることもあるが、翻訳書の多くが「漢文読み下し」の影響を受けていることを指摘する翻訳者・外山滋比古氏の指摘は、本文以上に興味深いものがあった。

反貧困の学校―貧困をどう伝えるか、どう学ぶか

この本が出てから7年経つが、生活保護者の状況は当時より悪くなっているのはなぜなのだろう?

2008年3月29日、東京都内のとある公立中学校で「貧困撲滅」を訴えるシンポジウムが開催された。このシンポジウムに参加したのは、ワーキングプアサラ金で苦しむ人たちの救援団体、労組、婦人団体など総勢90を超える団体と、1,600人を超える参加者たち。この本は、そのシンポジウムの様子を収録した本である。 「貧困」と聞いて、まず頭に思い浮かぶのは「生活保護」制度だが、この本を読むと、生活保護受給者に冷ややかな目線を向けているのは日本だけで、海外では「苦しくなったら、生活保護に頼るのは当たり前」という意識が常識になっていることがわかる。日本における「生活保護」のあり方は、海外メディア関係者には異様に感じられるということが、冒頭に掲載されている、海外メディア特派員の討論会で明らかになる。 「生活保護」制度は、困窮者にとって最後の頼みの綱なのだが、生活保護受給者を諦めさせようとする「水際作戦」が、こともあろうに実際は役所・福祉事務所により実施され、それを阻止しようとする団体NGO側が行使するケースが多発している。実際に需給にこぎつけても、役所からあれこれ言われるケースも多い。年末年始の「年越し派遣村」運動のおかげで、派遣切りをされた人たちに対し、以前よりは生活保護需給がしやすくなったという報道もされているが、ほとぼりが冷めればまた「水際作戦」が復活するのではないかと、運動関係者は危惧している。 さらにこの本では「貧困問題」が、教育や徴税業務の面にも深刻な影響を及ぼしているということを明らかにする。貧困家庭では、必要最低限の学費を払えず高校進学をあきらめてしまうケースが多いという。福祉児童手当が削減される傾向にあるからだ。民間のボランティアが、貧困家庭の自動の高校進学をかなえようとサポートしているが、それでも彼らの将来は険しい。 徴税業務においても、サラ金の取立てと違わないほどのケースが目立つという実態が明らかになる。深刻化する不況による売上不振で、税を滞納する個人商店が急増しているが、国税徴収法地方税法では、生活を破壊するような滞納処分や差し押さえを禁止する規定がある。しかしこの規定も先ほど触れた「水際作戦」同様、実際は守られていないケースが多いそうだ。小泉内閣が推進した「三位一体の改革」における地方交付税が削減された結果、税収不足を補うために地方自治体当局が、税金滞納分の分割納付を認めなくなったからである。各種控除が廃止され、生活が立ち行かなくなっているにもかかわらず、である。また、この本では消費税の正体についても明かされている。消費税は売上金の5%を徴収するのだが、消費税法では、輸出分についてはこの税金は課税対象外とされている。また企業の総仕入は非課税とされているが、大企業の多くは人件費を外注分として計上しているため、その分には消費税が課税対象とならないというのである。財界が「消費税値上げ」を叫ぶのは、こういう理由があるからだということが、このシンポジウムで明らかになるのだが、この点を指摘するメディアは皆無である。 最後に、労働組合関係者による討論会の様子が収録されている。連合全労連傘下のフリーター労組、独立系のフリーター労組が参加したこのシンポジウムで、この問題はもはやイデオロギーを超えたものになっているということが認識されるのだが、 残念ながら連合本体内部から、このシンポに参加したことに対する批判の声が多数上がったという。連合傘下の有力労組幹部の中には「われわれは『年越し派遣村』みたいなことはやらない」とはっきり言い切る者もいる。しかし連合傘下の電機労連所属の一部労組は、派遣切りにあった労働者のためにカンパを募るところも出てきているなど、組合によって対応に温度差があるのが残念だ。 シンポを企画し、この本を編集した「反貧困ネットワーク」は、分野と政治的スタンスを超えたつながりを作ることを趣旨として活動するが、このシンポに参加した団体は労組・生活保護支援団体を始め、医療支援団体、教育など広範囲に広がっている。 この本を読んで、日本の「貧困問題」がどんな問題を抱え、具体的にどのようにすればよいのかを理解してくれることを切に願う。

ここまでが、前のブログに書いたときの文章である。この書評を書いてからかれこれ7年経つが、生活保護受給者が置かれた状況は、当時に比べて格段に悪くなっているというのが実態である。 生活保護受給者に大打撃を与えたのは、2012年4月に発覚した生活保護受給問題である。これはとある芸人が、扶養能力があるにもかかわらず母親に生活援助をせず、母親は15年間も生活保護を受給していた。ところがこの事態をとある国会議員が国会で取り上げ、マスコミがセンセーショナルにこの問題を取り上げたことで「生活保護受給者バッシング」が起こった。もともと生活保護制度は、財政的に頼れる人がいない人のための最後の手段だったが、このことがきっかけで生活保護法は「改悪」された。具体的には、保護受給対象者は親戚全員で対象者の面倒を見るようにし、それができない場合に限って「受給対象」になる制度になったのである。制度が改悪される前は、受給が決定すると住んでいる自治体担当部署から、当座に必要な食料品などが送付された。またまじめに就労したり、就職活動をしている受給者に対しては、夏季・冬期に「ボーナス」という形で臨時給付があり、これは受給者にとっては大変役に立っていたのだが、開成を期にこの制度が廃止されたばかりか、月々の受給額も減らされ、今年(2015年)になってからは住宅手当も減額された。心ある担当者は、この制度改悪に反発しているが、この声が為政者には届かない。「生活保護受給者バッシング」では大々的に報道したメディアも、この問題に関してはほとんど触れることはない。 当時の報道では「雇い止め」という言葉がしきりに使われたが、なぜメディアは「勤務先を解雇された」と書かないのか、不思議でならなかった。今から考えるに、派遣労働者を雇用していた会社の多くは、メディアの大スポンサーだから、彼らも大企業のことを悪く書けないのだろう。というより、記者と大企業関係者には大学の同級生というケースが多いのだ。だから企業に入った人間はメディアにちょっとした圧力をかけられるだろうし、メディアに入社した人間も「自己規制」するようになる…とウダウダ書いているが、ようは企業もメディアも、自分より立場の弱い人間のことを考えていないのだろう、と思ってみたりしている。 先述の通り生活保護受給者バッシングが吹き荒れたが、実際の不正受給者は数%に過ぎない。一部の不正利用者のために、多くの真っ当な利用者が白眼視されるのはたまらない。バッシングといいボーナス廃止といい、多くのまじめな受給者を虐げるのはいかがなものか?「貯金しろ」と福祉事務所はいうが、正社員ですら貯金できないほどの安月給で、過労死寸前までこき使われている現状を、誰も厳しく指摘しないことの方が異常なのだが。

ああ、つくづく貧乏が憎い。

2015年7月の読書リスト

国民及び野党の猛烈な反対を押し切り、安倍政権が推し進める「安保法案(またの名を「戦争法案)」は、与党の数の力の前にあっけなく成立した。おそらく安倍政権は、衆議院で一度可決してしまったら、後は参議院での審議が滞っても「60日ルール」を使って、衆議院で再可決すれればこの法案は成立する。その前に、国民は諦めてしまうだろう。おそらく政権中枢はそう読んでいたはずだ。 ところが、今度の国民の抵抗は本当にしぶとい。学生団体だけではなく、学界、映画界、NGO、はては自衛隊OBまで、ありとあらゆる分野から「この法案は違憲だから即時廃案せよという声が上がり、その声は止まる気配がない。きのう(2015年7月31日)に都内で開催された安保法案反対集会には、4,000人以上が来場したそうである。新聞・テレビなど在京メディアは、国会前のデモをほとんど伝えないが、地方では毎日のように安保法案に反対するデモ・集会の様子を報道しているそうだ。参加者の怒りは冷酷非道な政権、頼りない野党、政権べったりで本来の役目を果たしていないメディアにも向けられている。おそらく「3.11」以降の反原発デモのように、時間が経ったら国民の怒りも沈静化するだろうと、政権側は思っているのだろう。だがそうは問屋が卸すかな?希代の愚策「アベノミクス」のおかげで地方経済はメタメタ、格差問題も広がる一方の生活に、有権者の怒りはついに爆発した。大メディアが示す「内閣支持率」とやらの数字も、とうとう「不支持」が「支持」を上回った。この雰囲気は、第一次安倍内閣の末期に似てきた。 さて、今月の読んだ本の紹介。 今月もバラエティに富んでいるなあ。

アートを書く!クリティカル文章術 (Next Creator Book)アートを書く!クリティカル文章術 (Next Creator Book) 読了日:7月3日 著者:杉原賢彦
最後の1分最後の1分 読了日:7月16日 著者:エレナー・アップデール
名門校とは何か? 人生を変える学舎の条件 (朝日新書)名門校とは何か? 人生を変える学舎の条件 (朝日新書) 読了日:7月20日 著者:おおたとしまさ
ちはやふる(26) (BE LOVE KC)ちはやふる(26) (BE LOVE KC) 読了日:7月24日 著者:末次由紀
ちはやふる(27) (BE LOVE KC)ちはやふる(27) (BE LOVE KC) 読了日:7月24日 著者:末次由紀
想像ラジオ (河出文庫)想像ラジオ (河出文庫) 読了日:7月27日 著者:いとうせいこう

アートを書く!クリティカル文章術

音楽・美術・映画の評論を書く時のポイントを、簡潔に紹介した本。各分野の課題文の添削が掲載されているので、どういうとこに気をつけて文章を書けばいいかがわかる。この本を一言でまとめれば、これらの分野の評論を書くには、かなり高度な知識が必要だということ。書いていることは理解できるのだが、いざまとめようとすると非常に難しい。特に映画の評論を書くときは、撮影技法や映画の理論を理解していないと、納得できるものはかけない。音楽の評論を書くときは、やっぱり楽譜が読めた方がいいのかな?美術の場合は、論旨が普通の評論とがいっているのが当たり前らしい。うーん、これとても他人を納得させられる文章とはいえないな。

ちはやふる26・27

団体戦日本一という目標を達成したのに、いつの間にか溝が深まっていた千早と太一。新との試合に敗れ意気消沈する太一を励まそうと、千早は彼の誕生日に「太一杯」を開催する。それから数日後、太一は千早に告白するが、この二人はいったいどうなってしまうのだろうか?「かるたを嫌いになったら、仲間とのつながりがなくなる」ことを恐れる太一。太一とかるた部、そしてかるた部の仲間たちを心配しつつ受験生モードに突入した千早。そんなある日、幼馴染みの新からメールが届く。その文面から、心が千々に乱れる千早…。個人的には、千早と太一が別れるのはありだと思う。太一がカルタ部に入ったのだって、千早と一緒になっていたいという気持ちからだったからね。とはいえ、このまま二人が別れたままで話が終わってしまうのは、あまりにも後味が悪すぎる。二人の関係は、そして瑞沢高校かるた部はいったいどうなる?

最後の1分

イギリスのとある年で起こった、大規模な爆発事件(もちろんフィクション)を題材に、たまたま現場に居合わせた犠牲者・重傷者・奇跡的に難を逃れた人たちが、事件1分発生前に感じたこと・考えたこと・とった行動を淡々と綴っていくサスペンス。彼らの思考と行動は「1秒」毎に区切って明記されるが、1秒で実際にこれだけの思考・行動ができるのかな?と思われるところも多々あるのは事実。巻末に犠牲者リストがでているので、本文を読みながら「こいつは最終的に助かったのかどうか?」を気にしながら読み進めるのも一つの方法。レビューサイトにもあるけど、この作品を映像化するのは、かなり特殊な技法と場面転換の技法を多用することになるだろう。不満なのは、この爆発事件の犯人と動機が明らかにされないことだが。

名門校とは何か?

「偏差値の高い学校は、生徒に受験勉強させてばかりいるのでは?」というのが、世間一般の進学校に対するイメージだろう。だが実際は「名門校」ほどリベラルアーツ(教養教育)に力を入れているのである。ミッション系や武蔵高校に限らず、毎年東大・京大に沢山の合格者を送り込んでいる開成・灘・筑波大学付属も、リベラルアーツに力を入れているのは意外だった。教養教育とは「生きる力」を身につけること。安倍内閣発足以降、あちこちで「教育改革」を叫ぶ声が上がっているが、筆者はこの時勢に対し「日本の名門校が培ってきた伝統を破壊することは逆効果だ」と述べている。これは筆者自身、麻布で教育を受けた影響があるのだと思っている。

想像ラジオ

東日本大震災をモチーフにした小説。大地震発生後の大津波に攫われ、命を落とした男性。彼は死者と生存者を繋ぐため、あの世で「想像ラジオ」のDJをはじめる。独特の軽妙なトークは、まるで本物のラジオのようである。家族は生きてるか?友だちや知り合いの消息は?部下はどこに消えた?彼らの行方を追い求める人たちは、情報を求めて彼にメールを送る。それに丁寧に対応する彼の様子が何とも切ない。刊行と同時に話題になり、昨年(2014年)の芥川賞候補作にもなった作品だが、読んでいてちっとも心の中に響かなかないのが不思議だ。テーマは時宜を得ており、アイディアも秀逸だとは思うのだが…。このモヤモヤした違和感はどこから来るのだろう?書評サイトの評価も、真っ二つに分かれる。これは人を選ぶ作品である。